第四章
アフガニスタン戦国時代
ソ連と共産主義を追い出すことに成功したイスラム聖戦士、ムジャヒディン。彼らは一様にイスラムに基づく国家を創ろうとしていた。しかしお互いがお互いを信頼せず、譲り合わず、自らが指導者になることを望み、関係国もそれぞれに息がかかる勢力を支援し、そしてこの国はバラバラになった、、、
ムジャヒディンたちは連立政権が無理と判断するや、二つのグループに分かれて対立した。1992年〜94年のことである。一つはイスラム協会、ラバニを中心とするグループ。もう一つはイスラム党、ヘクマティアルを中心とするグループである。主な勢力はこの表の通り。
ラバニ派 反ラバニ派(最高調整評議会) ラバニ、マスード(イスラム協会) ヘクマティアル(イスラム党) サヤフ(イスラム連合) ドスタム将軍(イスラム国民運動) イスマイル・ハン(ヘラート知事) ムジャデディ(国民救国戦線) アクバリー(イスラム統一党アクバリー派) マザリー(イスラム統一党マザリー派) 本当はもっと多くの組織が絡んでいるのだが、ここではわかりやすくするために主要な組織だけを記した。このどちらにも属さない中立グループも存在していた。
彼らは首都カブールだけでなく、全アフガニスタンで激しい戦闘を繰り広げた。この対立は民族間・宗派間の対立だけでなく、同じ民族間・宗派間でも対立するようになった。表を見ていただければわかるが、スンニVsシーアの対立だけでなく、スンニ同士、シーア同士の対立でもあるし、パシュトゥン人同士、ハザラ人同士の対立でもある。さらに反ラバニ派は一応の提携はしているものの、完全にはまとまることはなく、内部分裂も何回か起こしていた。私は
この混沌とした状況をみて「これは民族紛争なんかではない」と思ったのである。「民族間の対立」という判りやすいものではない、もっと複雑で、もっと醜い争いなのである。しかし、「民族間の対立」という側面を完全には否定できない。それは次に述べる近隣諸国の支援を見ればわかるであろう。
ただでさえ複雑なこの内戦を、もっと複雑に、そして長引かせたのが近隣諸国の無責任な支援である。パキスタンはヘクマティアルを、タジキスタン・インドはラバニを、ウズベキスタンはドスタムを、イランは両勢力のシーア派を、サウジアラビアはヘクマティアルとサヤフを、それぞれ支援していたのだ。
パキスタン ヘクマティアル インド ラバニ・マスード タジキスタン ラバニ・マスード ウズベキスタン ドスタム サウジアラビア ヘクマティアル、サヤフ イラン マザリー派、アクバリー派 この一見無秩序な援助は、各国の利益・安全保障に沿った結果であった。
パキスタンはダウド政権時よりヘクマティアル支援。ヘクマティアルが権力を握れば中央アジア・イランとの貿易ルートを独占できるし、パキスタン最大のライバル、インドとのカシミール紛争もやりやすくなる。
それに対抗するために、インドはヘクマティアル最大のライバル、ラバニ・マスードを支援。
タジキスタンはタジク人のラバニ・マスードを支援し、ウズベキスタンもウズベク人のドスタムを支援。両国の支援は民族的なつながりもそうだが、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を確保しておきたかったため、とも考えられる。
サウジアラビアは国教であるイスラム教ワッハーブ派の拡大と、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を睨んで、違う陣営に属するヘクマティアルとサヤフを支援。
イランはアフガニスタンでは少数のシーア派を今後も存続させるために、両勢力のシーア派を支援。隣国が完全なスンニ国家になっては困るからだ。
この各国支援の様子をみると「民族間の対立」という側面も否定できないであろう。しかし、やはりこの内戦は「民族紛争」なんかではない。「民族」というかなりあやふやな概念を口実に、近隣諸国が自らの利益を拡張、または維持しているだけではないだろうか? 各勢力は近隣諸国の「コマ」にすぎないし、近隣諸国は各勢力の「スポンサー」にすぎない。この内戦は「民族紛争」ではなく、一国家内の「権力闘争」であり、それに乗じた近隣諸国の「パワーゲーム」なのである。
この「権力闘争」と「パワーゲーム」はアフガニスタンの分裂を促し、400万人以上の難民を生んだだけだった。またムジャヒディンたちは、その組織の大小を問わず、略奪や暴行を働き、一般の人々から煙たがられていた。中には落ちぶれて山賊と化したムジャヒディンもいて、地方で暴れ、勝手に通行税を取り、国内経済をマヒさせた。もはやその名に「聖戦士」の面影はなかった。
混沌とした状況を人々が憂い始めていたとき、一つの希望が見えた。この状況を一変する新たな勢力が登場したのである。1994年11月、南部の都市カンダハルにその勢力は現れた。それが「タリバン」だった。