第五章

タリバン登場



 ソ連の介入、その後の内戦。いつ終わるとも知らないこの国の混乱は人々を疲弊させた。なんとかしなければならない状況だが、なんとも出来ない状況だった。そんなとき、人々の鬱積した不満を瞬く間に解消してくれるグループが、突如現れた。人々は彼らに期待し、そして、後悔した、、、


 連立政権後の内戦は各地に悲惨な爪痕だけを残した。南部の都市カンダハルでは、山賊と化したムジャヒディンが暴行・略奪を繰り返し、法外な通行税をとって私腹を肥やした。この状況に立ち上がった人物がいた。それがカンダハルのイスラム指導者、ムラー・ムハンマド・オマルである。彼は自分の弟子たち30人にわずか16丁の自動小銃を持たせ、ムジャヒディンの基地を襲撃させた。そして彼らを駆逐することに成功した。1994年、春のことだ。

 この勝利のあともムラー・オマルと彼の弟子たちはカンダハル各地の軍閥たちを倒していき、そして武器を手に入れ勢力を拡大していった。この勢力が「タリバン」である。しかしまだ彼らの存在は知られていなかった。それが公になったのは94年11月、パキスタンのトラック部隊拉致事件をタリバンが電撃的に解決したときからだった。この事件を解決し、カンダハル最大の軍閥を追い出し、ついにアフガニスタン第二の都市を占領した。そしてこれ以後、アフガニスタン各地のムジャヒディンたちを倒していく。

 まず95年2月にヘクマティアルに勝利。ヘクマティアルはこれ以後、弱小勢力になる。同年3月にイスラム統一党マザリー派に勝利。党首のマザリーはタリバンに捕まり、護送中にヘリコプターから突き落とされ死亡(タリバンは「暴れて勝手に落ちた」と言っている。マザリーの後任はハリリという人物)。9月にはイスマイル・ハンに勝利、西部の歴史都市ヘラートを占領。反ラバニ連合はタリバンとの接触を試みるも、失敗。「各ムジャヒディン勢力は武器を捨てて投降しろ。協力はしない。」と言い切ったのである。

 皮肉にも、このタリバンの拡大は各ムジャヒディン勢力をまとめることになった。96年5月、弱小勢力になったヘクマティアルはラバニとの関係修復を図り、8月にはドスタム派もまたラバニ派と事実上の停戦に合意。これにより反ラバニ派は瓦解。勢いに乗るラバニ派であったが、タリバンは9月についに首都カブールを制圧。タリバンの急進撃におそれを抱いたムジャヒディン勢力は反タリバン連合「祖国防衛最高評議会」を発足。あのヘクマティアル、ドスタム、イスラム統一党(シーア派勢力)ですら、ラバニやマスードがいるこの連合に参加した。

 タリバンの勢いはまだ止まらない。97年にはドスタムの部下、マリク将軍に働きかけ、ドスタムをトルコに追い出すことに成功。その後、ドスタムは帰還しマリクを引きずり下ろすが、98年の8月にタリバンとの戦闘に敗れ、再びトルコに敗走。北部の要衝マザリ・シャリフがタリバンの手に落ちた。この際、イランの外交官までも殺害してしまい、激怒したイランとの軍事衝突寸前まで緊張状態が高まった。さらに同じ月にはイスラム統一党ハリリ派を倒し、アフガニスタン中部のバーミヤンも手に入れた。

 そして現在、各勢力の残兵はマスードが指揮する「北部同盟」の元に集まった。少数精鋭のこの北部同盟だけが、唯一タリバンに抵抗しているグループである。しかし、その支配地域はアフガニスタン全土の5〜10%にすぎない。90%以上をタリバンが支配しているのだ。このタリバン支配の状況により、各国支援の様子も以下のように変わった。

タリバン
マスード(北部同盟)
パキスタン
タジキスタン
(サウジアラビア)
ウズベキスタン
イラン
インド

 またタリバンは国際的な承認を受けていない。承認しているのはパキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国のみである。さらに、国土の90%以上を獲得しているにも関わらず、国連の代表権も持っていない。代表権は依然、北部同盟のラバニ大統領が握っている。ではこの「タリバン」とは、一体何者なのだろうか?

 「タリバン」とはイスラム神学生「タリブ」の複数形のこと。彼らのほとんどはジハードのときにパキスタンに逃れた難民、またはその子供たちで、パシュトゥン人で構成されている。その名の通り、マドラサ(イスラムの学校)の生徒たちだ。根拠地は南部の都市カンダハル。このカンダハルという町はソ連侵攻以前から貧しい町で、後進地区だった。教育もあまり十分ではなく、イスラムの教えもパシュトゥン人の掟、「パシュトゥーンワリ」と混ざったモノだ。彼らの指導者はムラー・ムハンマド・オマル。カンダハル近郊の農村のムラー(イスラム指導者)だった。先にも書いたが、長期化する内戦を憂い、弟子たちともに立ち上がった。それが94年春のこと。

 このころパキスタンの対アフガニスタン政策は手詰まりだった。支援してきたヘクマティアルはラバニたちの前に思うように勢力を拡大できず、また権力志向ゆえの傲慢な態度は他の民族だけでなく、同じパシュトゥン人からも距離を置かれるようになってしまった。繰り返し行った首都カブールへのミサイル攻撃により、カブール市民も彼を嫌った。パキスタンとしては彼を支援し続けるか、それともヘクマティアルをおとなしくさせてもう一度連立政権を作らせるか、または別の組織を支援するか、で悩んでいたところだった。そんなときに、カンダハルで勢力を伸ばしつつあったタリバンをパキスタンは見つけ、以後、パキスタンは公然とタリバンを支援している。

 さてこのタリバンなのだが、かなり「変」である。まず彼らのイスラムはアフガニスタンにはそれまで存在していなかった。アフガニスタンには三つのイスラムがあった。一つ目はスンニ派ハナフィイ学派の伝統的イスラム。二つ目はその伝統的イスラムにスーフィズムが影響を与えたイスラム。そして三つ目は1960年代のイスラム急進派である。ラバニやヘクマティアル、マスードはこの急進派に分類される。しかしタリバンはこのどれにも属さない独自解釈のイスラムを信奉し、それ以外のイスラムは間違ったモノと決めつけている。彼らが独自解釈に至った原因は、パシュトゥン人だけの掟「パシュトゥーンワリ」が影響を与えていたことと、貧困による教育不足のために不十分なイスラム知識しか持ち合わせていなかったことがあげられる。その例を二つほど挙げる。

●性犯罪者に対する処刑で彼らは前代未聞の処刑方法を行った。獣姦の罪で死刑を宣告された三人の男性は、土とレンガの巨大な壁の下に連れて行かれ、その壁を戦車が押し倒し、瓦礫の下敷きになって死んだ。タリバン曰く「シャリーア(イスラム法)に基づいた処刑」だそうだ。しかしこんな処刑は他のイスラム国では行われていないし、シャリーアには「壁を崩し、その下敷きにさせて処刑せよ」ということは書いていない。

●タリバンの指導者、ムラー・ムハンマド・オマルは1996年4月4日、あるビルの屋上に預言者ムハンマドの外套を着て現れた。この外套は60年間、聖地から持ち出されたことのないものだった。ムラー・オマルがこの外套を着て屋上に立ち、風に翻させたりすると、下の広場に集まっていたムラー(イスラム指導者)たちは大声で叫んだ「アミール・ウル・モミンイーン!」。この「アミール・ウル・モミンイーン」とは「全世界のムスリムたちの指導者」という意味である。しかしこの行為はアフガニスタン国内のムスリムだけでなく、世界中のムスリムに対する侮辱でもあった。学識もなく、部族的権威もなく、預言者の血筋とも関係のない貧しい村のムラーが、これほど重要な称号を勝手に名乗ったからだ。これは彼らのイスラム知識の無さを大いに示している良い例であろう。

 また女性の存在も否定している。女性は教育を受けてはならず、働いてはならず、町によっては外出すらしてはならない。なぜなら女性は「誘惑により、アラーへの信仰を妨げるもの」だからだ。女性の国連職員ですら活動を禁止され、鞭を打たれた職員もいた。餓えで苦しんでいる人々への食料援助要員ですら、女性という名目で活動を禁止された。アフガニスタンでは内戦・干ばつ・地震により、十分な作物が収穫できず、餓死者が50〜100万人と言われているのに。

 さらに西欧の文化だけでなく、アフガンに暮らす諸民族の文化までも否定している。音楽・踊り・スポーツ、そして凧揚げすら禁止された。1996年12月、カブールで発表された宗教警察総本部の布告には次のように書かれている。

「6、凧揚げの禁止。凧を売る店は廃止されなければならない」
「12、結婚式で歌や踊りの禁止。これに違反した場合は家長が逮捕され、罰せられる。」

 さらにさらに、麻薬には反対しているがアヘンには賛成の態度を取っているのだ。イスラム教では麻薬は厳禁だが、彼ら曰く、「アヘンはアフガン人には消費されず、イスラム不信者に消費されるからいいのである。」つまりこれは、海外にアヘンを輸出しているということだ。95年以降、カンダハル一帯はアヘンの生産量が飛躍的に増加した。タリバンがケシ栽培を奨励しているからだ。このアヘンはイラン・中央アジアを通ってロシアやEU、アメリカ、そして全世界に流れ出ている。

 このようなタリバンの偏ったイスラムはアフガニスタンをパシュトゥンと非パシュトゥンに二分してしまった。タリバンは支配地域を拡大させると同時に、その独自のイスラムを諸民族に強制したからだ。そして彼らの文化を破壊していった。各勢力の残兵たちがマスードのもとに集まり、北部同盟を結成する背景にはこういったタリバンの蛮行があったからだ。またアフガンに暮らす普通の人々も彼らを恐れた。ムジャヒディンたちが内戦をしていた時代の方がまだ「自由」はあったのだ。ムジャヒディンたちは「イスラム原理主義」と呼ばれていたが、それでも近代化には前向きだったし、女性の地位も認めていた。しかしタリバンは、反近代的・反西欧的、そして女性を認めなかったのである。

 それではなぜこのタリバンが快進撃を続けることが出来たのであろうか? 次の章ではその原因と、その快進撃がもたらした各国の新たな「グレートゲーム」について記していく。



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