第三章

ムジャヒディン政権誕生



 1978年12月、ついにソ連軍がアフガニスタンの地に進行してきた。その数、10万人。米ソ冷戦・開発競争がもたらした最新式の装備で彼らはやってきた。迎え撃つアフガン人達は、いたって普通の人々だった。大学の教授だった、学生だった、サラリーマンだった。超一流の戦争のプロ相手に、素人達が勝てるはずもなかった、、、


 二章でも書いたが、共産党の影響力が増すに連れ、アフガン国内・国外(主にペシャワール)で反体制運動、反共運動が盛んになった。ペシャワールでは組織された反体制ゲリラが活動を開始していた。ソ連はこれに眼を付けたのである。「反体制運動により、アフガニスタンの治安は悪化した。これを回復する。」 しかし、その本当の目的は

1:冬になっても凍らない港(不凍港)が欲しかったために南下した
2:中東の石油に手を出したかった
3:アメリカの同盟国であるパキスタンをやっつけたかった

などであろう。しかしソ連の南下を黙って見過ごすわけにはいかない、なんとしても南下を阻止しないといけない国があった。それがアメリカ・パキスタン・サウジアラビアである。アメリカはソ連の拡張=共産主義の拡張を阻止したかった。パキスタンは国境を接するアフガニスタンがソ連の完全支配下に入った場合、自国の安全が脅かされると感じた。サウジアラビアの事情はよくわからないが、ソ連が中東の石油に手を伸ばせば、いままで通りの石油ビジネスが思うようにいかなくなるし、また宗教を禁じるソ連はイスラムの敵でもあった。

 この三カ国はアメリカが「武器」と「ゲリラ戦術」を、パキスタンが「軍事施設」を、サウジアラビアが「資金」を、それぞれ惜しみなく提供した。また、パキスタンとサウジアラビアは世界のムスリム(イスラム教徒)に「イスラムの危機」を知らせた。これに呼応した世界中のムスリム達がアフガニスタンに馳せ参じた。このムスリム義勇兵により、「人員」が確保できた。つまりソ連に対抗するための「武器」「戦術」「施設」「資金」「人員」は全てそろったことになった。

 いつしか、このソ連への抵抗は「イスラムを守るための聖戦」、「ジハード」と呼ばれるようになった。そしてアフガンに暮らす普通の人々、大学教授・学生・サラリーマン、さらに世界中から集まった義勇兵たちは米・パ・サウジの援助により、一流とは言えないまでも立派な戦士に成長した。この「イスラムの聖戦を戦う戦士」たちこそが「ムジャヒディン」なのである。その「ムジャヒディン(=イスラム聖戦士)」たちの中でも特に影響力が強かった人々が、二章で各自の組織を作ったリーダー達である。とりわけ、イスラム協会のラバニとマスード、イスラム党のヘクマティアルが重要人物である。

 ムジャヒディンたちは激しいゲリラ戦を展開した。首都カブール北部のパンジシール渓谷は「自然の要塞」になった。そこに立てこもり、抵抗を続けたアハマド・シャー・マスード司令官や、アフガン西部の歴史都市ヘラートでソ連に大いなる痛手を負わせたイスマイル・ハンなどは、「Russian War Hero」(ソ連聖戦の英雄)と呼ばれた。そして彼らは勝った。ジハードは成功し、ソ連は撤退した。(1989年2月)。さらに三年後の1992年には最後の共産党政権、ナジブラ政権を打倒しアフガニスタンから共産主義を追い出したのである。ムジャヒディンたちはカブールに入城し、そしてイスラムに基づく連立政権を発足させた。このムジャヒディン政権は国内から、世界中から期待を集めた。

「これでアフガニスタンは平和になる」

 しかしこの連立は失敗した。不安定要素があまりにも多すぎたのだ。大統領に就任したのはイスラム協会のリーダー、ブルハヌディン・ラバニ。首相に就任したのはイスラム党のリーダー、グルブディン・ヘクマティアル。そして国防相に就任したのはイスラム協会の軍事司令官、アハマド・シャー・マスード。しかし思い出して欲しい。元々ヘクマティアルはラバニたちとは仲が悪く、イスラム協会を脱会してイスラム党を作ったのだ。さらにマスードとヘクマティアルの仲は、ダウド政権に対するクーデター失敗以来、最悪である。国防相のポストを巡ってヘクマティアルは反発し、ラバニは苦渋のすえ、マスードを解任。対ソ聖戦の英雄をカブールから追い出し、パキスタンとの独自のつながりを持つ過激なヘクマティアルを迎え入れる結果になった。

 さらにこの政権はウズベク人勢力のドスタム将軍派とハザラ人勢力(シーア派勢力)を無視した。ドスタム将軍は共産党政権下の軍人だったがナジブラ政権末期に情勢不利と判断し、ムジャヒディンたちに寝返り彼らのカブール入城を助けた功労者であった。しかしそのドスタム将軍には何のポストも与えられなかったため、彼は勝手に北部六州を占拠してしまった。旧政権下の軍事物資を多数抱えているドスタム派はこれから起こる内戦の重要なアクターになる。

 ハザラ人勢力はペシャワールのムジャヒディンたちとは一線を画していた。彼らはイスラム教シーア派で、それぞれイランからの支援を受けてソ連に抵抗していた。このため、パキスタン・サウジアラビアはハザラ人勢力をイランの傀儡とみなし、連立政権の主要なポストには就けなかった。ハザラ人勢力は当然不服に思っていたし、イランも同じであった。後に8つのハザラ人勢力はイランの指導の元、「イスラム統一党」という名で一本化され、ドスタムと同じく今後の内戦の重要なアクターになる。

 しかし最大の失敗要因は、各組織間の不和だと思う。ナジブラを倒しカブールを占拠する際、分割統治を巡って激しい戦闘が起こった。分割統治に参加したのはイスラム協会・イスラム党・シーア派勢力・ドスタム将軍派。ここで多くの犠牲者と以後に渡る怨恨を生んだ。しかしこのような状態になるということは、それ以前から不和はあったのである。イスラム協会とイスラム党の不和、ムジャヒディン勢力と旧政権の軍人との不和、スンニ派とシーア派の不和、パキスタン・サウジとイランとの不和、、、これでは連立が上手くいくはずもなかった。そしてこれ以後、本格的な内戦が始まるのであった。

 四章ではその内戦の経緯を中心に話を進めていく。



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