篠島30周年(平成21年7月26日)

 今から30年前の今日、この時間、私は愛知県知多半島の沖に浮かぶ篠島で、吉田拓郎のオールナイトコンサートに参加していた。コンサートのタイトルは、吉田拓郎アイランドコンサートin篠島。その時私は高1の16歳。中学の同級生大ちゃんと2人で、新宿発の名鉄観光のバスツアーで参加した。1979年7月26日(木)夜7時から、翌27日(金)朝4時半頃まで、休憩やゲストを挟んでおよそ9時間以上のまさしく拓郎オンステージだった。今でもラストの人間なんての半狂乱状態は忘れられない。今改めてチケットを見ると、上記のように、木曜から金曜にかけてのコンサートだった。まあ拓郎も33歳だったし、客の大半が若者だから、学生は夏休みだし、社会人で島まで来るのは拓郎狂の人たちってことで、まあいいんだが、今から考えると、踏み絵のような日程だった。そんなところに2万人も集めて徹夜させたんだから、やっぱり拓郎はカリスマだ。
 その頃拓郎は文化放送で金曜セイヤングをやっていて、78年暮れか79年初頭に7月の篠島という話題が大きくなってきた。中2の時に拓郎ファンになったばかりで、それまではビートルズ、主にポール・マッカートニーを聞いていたので、コンサートなど行ったこともなく、初めてのコンサートでしかも実質2泊3日。よく親が許してくれたものだと思うが、大ちゃんが一緒ということで許してもらったんだったろうか。
 さて、篠島でコンサートがあると言うが、篠島、篠島と言うだけで、どこにあるのかなど話題に上らない。もしかしたら、寝てしまって聞いてなかったのかもしれないが、それから中学の日本地図帳と首っ引きになり、日本中の島という島をなめまわすように探して、ようやく知多半島と渥美半島の間に篠島を発見した。まだチケットも発売になっていない時期だったので、チケットは取れたと仮定して、じゃあどうやって行くんだ?と今度は行き方を探し始めた。
 時刻表をまた目を皿のようにして探した結果、三河湾のフェリーなど、名鉄海上観光船に乗らないと行けないことが分かった。島なんだから当たり前だが、そもそもこの頃は目前に高校受験を控えていた頃で、いったい何やってたんだか。で、仮にチケットが取れても、足がなければどうにもならない。まずは船便の乗船券を押さえようということで、その頃運良く千葉駅前に名鉄観光サービスの営業所があったので、速攻でチケットを買いに行った。
 営業所のおじさんに、7月に篠島に行きたいんで師崎−篠島間の乗船券を買いたいと言ったところ、中学生がやってきて、いきなり千葉から愛知県の突端の島に行きたいというもんだから、おじさん怪しんだのか、何しに行くのと聞いてきた。そこで、今年7月26日に篠島で吉田拓郎のコンサートがあると言うと、おじさん納得したようで、それなら、名鉄で東京からバスツアー出す予定になってるから、それで行った方がいいよと教えてくれた。それって船も付いてるのとか、チケットはとか、しつこく聞く中学生にコンサート会場までの往復で、チケットもセットで1万2、3千円だと教えてくれた。4月頃発売になるから、その時またおいでと言われ、その日は引き上げた。
 無事高校受験が終わり、私も大ちゃんも志望校に合格し、4月いよいよ篠島のチケット発売ということで、名鉄観光サービスに行くと、既にバスツアーも発売になっていた。これで準備は整った。後はコンサートの日を指折り数えて待つだけ。高校に入って、フォークソング部と放送部に入ったが、来る日も来る日も篠島、篠島と口走るおかしな奴だったかもしれない。
 そして、夏休み、その日は来た。1979年7月25日夜10時新宿駅西口集合。そういえば、新宿駅も初めて行ったんだっけ。西口地下街で晩飯を食べ、集合場所にはバスが確か16台いて、我々は7号車だった。バスに乗り込むと、一番後ろの方に陣取った大学生っぽいお兄さん達が、ラジカセをかけたり、ギター弾いたりで大盛り上がりである。大ちゃんは昼間バイトしているので、乗るやいなや寝てしまったが、私は興奮でほとんど眠れなかった。うとうとしながらいつの間にか朝になり、バスは知多半島を南下、多分師崎だったと思うが、バスをそこで降りて、船で篠島に向かった。篠島の岸壁には巨大な拓郎の絵が描かれた立て看板があり、船上の客は否応なしに盛り上がる。ついに篠島上陸。港から歩いてすぐの埋め立て地のような広場がコンサート会場だった。ステージからざっと50mくらいのところに場所取りをしたものの、まだ朝早い時間だったので、夜7時の開演までの暇つぶしが大変だった。2人で会場内を歩き回ったり、島内を探検したり、海で泳いだりしたが、かえって疲れてしまって、結局戻ってきて、寝ようとしたのだが、何せ7月末の夏真っ盛りの昼下がり、カンカン照りで寝ようにも寝られない。で、うだうだしている内に、なんとか時間は過ぎ、ようやく開演の時は来た。
 その時に向かって、場内はタクローコールでヒートアップして来た。午後7時、大音響のベードラのドッドンという音で始まるローリング30がかかり、総立ち状態に。ローリング30を全員で大合唱し終わると、1曲目のああ青春でオールナイトの火ぶたは切られた。あとはもう興奮で覚えていない。落陽が3回、人間なんても他の曲からのメドレー含め3回あったのはよく覚えている。当時の拓郎のコンサートは必ずアコースティックセットがあったのだが、午前0時頃がその時間帯で、その後、長渕剛、小室等とゲストが続いた1時頃が一番眠かった。今、セットリストを見ると、歌にはならないけれどなんて、こんな曲もやってたんだとかほんと懐かしいものだ。最後の人間なんては初っぱなに書いたように半狂乱状態で完全燃焼。全てが終わり、再びツアーバスで千葉へと帰って行ったのだった。
 ノスタルジーにひたりやすい私ではあるが、篠島で過ごした一晩、篠島に至るまでの半年が今へと続く自分の人生を大きく狂わせた、いや方向づけたと言って間違いない。今の自分があるのは、1979年7月27日金曜日の朝4時に篠島で歌っていた人間なんてがあったからだと思う。篠島を皮切りに、もう何回行ったか覚えてないが、まあ30回くらいは拓郎のコンサートに行った。お互いに年を取り、今や拓郎63歳、私は46歳になった。こんな年まで拓郎がステージに立ってるなんて夢にも思わなかったし、自分も30年後にまだチケットを取ってコンサートに行くなんてこと、想像も出来ない若い時代だった。
 拓郎は、篠島の年の暮れ、70年代の歌はもう歌わないと宣言し、続いて85年のつま恋でコンサートからの撤退を示唆し、今回最後のコンサートツアーとして、10箇所のツアーをスタートし、5箇所目で頓挫した。2003年には癌が発見された時には、もうツアーは無理だろうと思ったが、その都度ファンの期待や心配を裏切って現場に復活した。慢性気管支炎だから、完治は無理にしても、体調を整えて、年に1回くらいはステージに姿を見せて欲しいと思う。

 来年は85年のつま恋から25周年だから、7月27日につま恋85から25周年ってブログに書こう。

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