新潟県中越地震(平成16年10月25日)

 それはまるで、自分の真下の地面の裏側をを巨大なヤスリで思いっきり素早く擦られたとでも言おうか、あるいは地面の下のゴジラかガメラがいきなりぞわっと動いたとでも言おうか、10月23日午後5時56分の地震(小千谷震度6強)を販売局で感じた時とも、24日午後2時21分の地震(小千谷震度5強)を柏崎インターの出口渋滞中に感じたのとも違った。24日午後4時6分に震源直上の小千谷市で感じた震度4の余震は、本当に思わず悲鳴の上がる、今までに体験したことのない感覚の地震だった。おそらくあの本当に恐ろしい揺れを、小千谷及びその周辺市町村の人々は23日夕方から今に至るも、そしてこれからしばらくの間ずっと経験し、おびえ続けなければならない。被災地の大半のところでは、いつ家が崩れ落ちるか分からない恐怖のため、車の中や原っぱ、校庭、駐車場などで今も生活している。たいていのことには割と平然としている私もあの揺れにはさすがにビビった。阪神大震災の被災地を全く見ていない私としては、全く初めての経験だった。

 10月23日夕方、その日は休みで、夕方若干の仕事を片づけるために私はちょうど会社にいた。最初の震度6強は300km離れたサンケイビルの窓、柱をきしませ、ギーギー音を立て、我々のいる8Fも舟を漕ぐように大きく揺れたものだ。これはでかい、きっとどっかでかなり大きな地震が起きているはずと思うや、テレビからは新潟県中越地方で震度6強という第1報を伝えていた。そして、それは、僅かの間に2度、3度と起こり、これは大変なことになる、今日は長丁場だと覚悟したのだった。翌朝刊の新潟及び長野版の降版繰り上げが決まり、社にいた若い衆にFAX連絡させ、とりあえず一段落と思って、テレビを見ていた。そのうち、新幹線が脱線だの、高速はもちろんそこら中の一般道が通行止めになっているのと少しずつ情報が入って来る。当該部の次長が専売店に再度FAXを流し、局長と電話している光景を見てはっとした。FAXは?届いたのか?あわてて、送信記録の通知を見ると1回目に送ったFAXは121件中49件しか届いていなかった。FAXといえども一般電話だし停電すれば使えない。何回か再送信を繰り返し、FAXの届かないのはまさしく今回の被災地区の販売店数十店だった。その中には産経の専売店も数店含まれる。この非常事態に新潟担当は運がいいのか悪いのか、被災地の長岡にいた。担当とも店とも連絡が取れない状態の中、明朝10時から東日本販売本部の全員と管理部門の部長を集め、会議を開くという話が聞こえて来た。会議?何考えてんだと会議の嫌いな私はすぐ思う。10時間後に会議やってどうすんだ、情報もないのに、まったく、と思った私は、いつもの悪い癖が出て、局長に電話していた。「会議なんてやって、どうすんですか、すぐ誰か現地に飛ばすべきです。局長が行けと命令して、部長に言っといてさえくれれば、俺はすぐ準備して現地に行きますよ」と興奮して言う私に、局長は喜んで行けと命令してくれた。但し、注意書きがついた、絶対に1人で行ってはならない、必ず2人で行けと。そして、たまたま、そこにいた数人の担当員の内の1人に白羽の矢が立ち、とりあえず緊急に必要と思われるモノだけを買って情報収集と現地専売店(越後田沢、十日町、小千谷)の激励に向かうことにした。その時既に24日0時半、長い長い1日が始まろうとしていた。

 車で来ていた担当にいったん自宅に送ってもらい、2人とも準備をして出発した。途中数カ所のコンビニで水や懐中電灯などの買い物をし、もしかするとその3専売店には紙が届いていないかもしれないと、浦安工場に寄って、あらかじめ頼んでおいた車に積める必要最小限の数百部の本日の朝刊を積んで新潟に向かった。浦安工場を3時過ぎに出て、途中交替しながら関越・上信越道と飛ばしに飛ばし、1店目、越後田沢に着いたのが7時ちょっと前。パン屋さんと喫茶店を兼営している新聞販売店だが、中に入ってみると喫茶店部分のカウンターの中でグラスや皿が割れて散らばっている。これは凄いと思いながらも、特に停電も断水もせず、パン屋の仕込みも出来ているので大丈夫だなと思った。しかし、その日、小学校で予定されていたお祭りが中止になり注文された100個のサンドイッチがパーになると嘆いていた。仕入れして準備が整って、後は作って届けるだけだという。「じゃあ、それは我々で買い取って、この先の十日町や小千谷に持っていきますから作って下さい。その間に我々はまず様子を見てきますから」と言って店を後にした。十日町までは15分くらいだからだ。途中、田沢の店から電話が来て、サンドイッチは学校で引き取ってくれることになったから大丈夫ですという。これで心おきなく奥まで進んで行けると思ったのは、ちょうど十日町市に入った頃だった。それまでとは道路の様子が違う。うねり、亀裂、小さな陥没、段差などが次々と我々の目に飛び込む。やっぱり凄い、と思いながら、街中に入って行くと、至る所、壁やガラス、塀などが崩れている。そして、十日町の専売店に到着。ちょうど奥さんが配達途中に店に戻って来ており、様子を聞くとともに家の中を見せてもらった。仏壇は傾き、キッチンは食器棚が倒れて、什器類が散乱しており、本当に大変な様子が一目で分かる。昨夜はみんな車の中で寝たという。ここで若干の支援物資を渡すと、新潟担当が行く予定になっている小千谷に向かうことにした。長岡から来たんじゃ、おそらく何も持って来れてないだろうということで、10時からの会議までに向こうにも行って、何が必要なのか取材する必要があったから、とにかく小千谷に行ってみることにした。

 別のページに掲載した写真はこの後から始まる。国道117号線で小千谷に行くことにした我々はまさしく小千谷市という看板を見た後、すぐに警察の通行止めの検問現場に引っかかった。社員証を見せ、行けるところまで行きたいと言うと、マスコミのみなさんがこの先にたくさんいますが、この先の陥没現場から先はどうかと思うと言うので、行けるところまで行かせて下さいと言って、その場をすり抜けた。そしてすり抜けた先にあったのが、写真冒頭の数枚の現場である。写真はとったがこれではどうにもならないと思い、迂回することにして、近辺の抜け道と考えられるところを数カ所まわって見たが、他の写真にあるように倒木や土砂崩れで行き止まりになっているか、はなから通行止めで完全にロックアウトされている。これではどうにもならないと思った我々はいったん十日町に引き上げることにした。会議が始まるまでに写真をアップし、つながらない電話を何回でもかけ続けて、とにかくレポートしなければならないからだ。

 十日町でもう一度所長や家族に取材し、写真をホームページにアップして報告すると、本社から、緊急援助物資を積んだワゴンを2台出すことになった。おまえらは早めに引き上げて来いというが、こうなったら意地でも小千谷入りするぞと覚悟を決めた。いったん長野県内に戻り、上信越道から北陸道に入って、柏崎経由でなら入れるだろうと思ったからだ。十日町と小千谷は完全に分断されている。十日町は長野に向かって扉が開かれているが、向こう側の長岡が被災しておおごとになっている以上、小千谷は陸の孤島になっているに違いない。この目でそれをみるまでは帰れないと思った。北陸道は柏崎の20km手前の柿崎までしか通っていなかったが、柿崎ICの出口渋滞に引っかかって、いよいよ高速を降りようというちょうどその時、柏崎まで高速が開通した。ついてる、このまま突っ走れば、柏崎は出口渋滞してない。そして、柏崎ICを降りると、小千谷に向かう国道291号線を走った。しかし、やはり通行止めで途中迂回させられることになった。結局、国道252号へ戻り、峠越えをして、小国町に入り、再び291号に戻って小千谷に入ることにした。しかし、ここでもまた通行止め。しかし、警察がいない。我々は通行止めを強行突破することに決めた。その道で見たものは、まさしく通行止めにするにふさわしい道路だった。運転の素人には通り抜けるのは至難の技と思われるような、縦に地割れし、1mも上下にずれた道路、道の3/2くらい占拠した倒木、思い切ってうねったあげくに急に段差がある。そんなもののオンパレードだ。後刻、後続の応援隊にこの様子を克明に教え、くれぐれも無理をするなと警告したのは言うまでもない。

 それやこれやの苦難を突破し、小千谷の市街地で我々が見たモノは、みなさんがテレビで見た惨状そのものだった。潰れた家、陥没した道路に落ちた車、厚さ10数センチの壁が四角くはがれ落ちて鉄筋が剥き出しになった信金、いたる所の土砂崩れ等々だ。そして、小千谷の店にたどり着いた4時過ぎ、冒頭の余震に遭遇したのである。小千谷の所長一家はここには書き尽くせない恐怖を語ってくれた。この奥にある山古志村は、おそらく全員移住を余儀なくされるだろうということもその場で聞き、後で夜テレビを見て、逆に生き残っている人がたくさんいて安堵したものだ。我々の持ってきた若干の物資を渡し、精一杯の激励の言葉をかけた後、店を後にし、小千谷市内をひと通り見て回って、我々はその場を去ることにした。相棒を終電までに長野駅に送り届けたかった私は、柏崎に戻るよりもなんとしても迂回路を探して十日町から長野入りしたかった。結局通れるのはさっき来た道だけと悟り、来たときよりもブロックがきつくなった国道291号線を夜の闇の中、ヘッドライトに照らし出される地面の段差の影に細心の注意を払い、来たときに道路の右左どちら側を通ったかを思い出しながら、再び小国町内に戻った。そこは、電気のまったくついていない沈黙の世界だった。路上に停めた車の中に避難している人をみかけながら、もう、ほとんど当てずっぽうに西へ西へと走った。相当大回りしたつもりになっていたので、峠を越えて、向こう側に夜景が見えた時には長野県境まで来てしまったかと思った。しかし、それは十日町市だった。電気が戻ったのだ。もう一度十日町店の所長にあいさつしてから帰ろうと店に行ってみると真っ暗。目の前の十日町高校のグランドに車で家族3人犬2匹が避難していた。余震が怖くて店には居られないのだ。小千谷で見た惨状を話すと、十日町はまだましですねと少し気持ちが楽になったようだった。十日町を後にし、おそらくは長野県に入ったあたりですれ違っただろう、後続の応援隊に後をまかせて我々はひたすら長野に向けて走った。なんとか終電1本前の新幹線に相棒を乗せ、ホテルに入った私は、小千谷で撮った写真をアップすると、EZTVで展開している今見てきた光景を見ながら、泥のように眠ってしまった。目覚ましも、夜中に何回も入ったウェザーニュースの地震速報メールも気付かずに。

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