新聞は発行地域で一斉に配達される必要があるため、工場から遠い方は早版、一番近いところは最終版という風に、各社2版制から5版制くらいに分かれている。早版は締切が早く、遅版は締切が遅いため、編集は極力遅版区域を拡大したいと考えている。そして、その究極は最終版地域の拡大だ。新聞は読者が手にして初めて新聞となるのであって、それまではどんなに情報がつまっていようがただの紙だ。最終版の締切については協定があって、よほどの大事件がない限り、それ以上後ろには引き延ばせない訳だが、早版地域を遅版地域に格上げするのは可能だ。分散工場を続々と設置していった背景には、増頁競争による一工場の印刷能力の限界の他、この遅版地域の拡大という編集サイドの野望がある。確かにうちの新聞の甲信越地区のように、野球の結果の載らない新聞では困る訳だが、最終版とその一版前で、どれだけの差があるというのだろうか。
私は千葉市の生まれ育ちで、ずっと産経でいう14版(各社でいう13版)を読んできたのだが、別に不都合を感じたことはない。確かにいつぞや、アメリカでスペースシャトルが発射失敗して空中で爆発した事件が載った載らないで随分な騒ぎになったことはある。昨年の同時多発テロでも載った載らないが大騒ぎになった。しかし、事件は新聞の締切を待って起こるわけではない。締切間際の事件など毎日起こる訳ではなく、年に数回の話だ。全国紙で自社の部数の過半数を最終版が占める社はほとんどないのではないか。(ちなみに産経新聞は過半数を超えているが大阪本社の全体に占める最終版部数の比率が極端に高いためだ。東京本社版に限ればやはり14版以前の部数が過半数だ)昔に比べれば、鉛の活字がオフセットになるなど、新聞製作工程の格段の進歩が、締切から刷り出しまでの時間を大幅に短縮したのも事実だが、最終的には販売の現場にしわ寄せが来る。
各版の締切降版時間の差は概ね1時間である。工場も造らずに1版下げれば当然印刷開始時間は1時間下がる訳だが、さすがにそんなことはない。しかし、工場を造ったと言って、それが距離にして1時間以内のところであれば、1版下げれば、たとえ何分でも店着時間は遅くなる。その分は配達人員の増強などで吸収しろということだろうか。販売経費を極限まで切り詰める中で、店着時間が遅くなれば、最終的に被害を被るのは、結局は読者だ。ある工場を廃止して遠くの工場から配送することになっても、一度最終版になった地区を上げるなんてことはまず考えられない。配達出来なければ話にならないのに、一度獲得した遅版はもはや編集の既得権なのだ。別に工場がなくなった訳ではないが、うちの社には現にそういう地区がある。販売のためであろうとなかろうと、新聞社の政策決定は全て編集主導でなされるのが常だ。別に悪いとは思わないが、せめて工場が遠くなったら、版を下げるくらいの当たり前のことが行われてしかるべきだと思うのだが、そういう議論が通った話は聞いたことがない。まあ、販売出身の新聞社の社長なんて、務台さんとうちの創業者の前田久吉翁くらいしか聞いたことがないのだからそれも仕方のないことか。
部数競争の弊害が言われて久しいが、実は特ダネ特落ち競争の激しさも世間に見えないだけで、販売現場には歪んだ影響を与えている。夕刊を廃止した産経新聞くらい、この競争の土俵から離れて、解説性重視の重厚な紙面を徹底的に追及して欲しいものである。