担当員であること(平成14年6月17日)

 お久しぶりです。今日は産経新聞社7月1日付異動の内示日でした。私も異動になりました。4年間の地方担当がついに終焉を迎え、先日書いた、辞めた担当のブロック(今は当該部の次長が代行している)に行くことになりました。首都圏の激戦区に行って、果たしてこのコラムを書き続けることが出来るかどうか分かりませんが、ネタは逆に豊富だと思うので、おっかなびっくり書いていこうと思います。

 さて、私は今度のブロックで10ブロック目になる。入社15年3ヶ月で内勤が1年半あることを考えると、1ヶ所の長さが短いことに気付くだろう。そう、私は2年以上やったブロックがまだ2ヶ所しかない。平均するとほぼ1ヶ所1年半だ。はっきり言って、満足に仕事したと思えるブロックは1ヶ所もない。私は、担当員は1ヶ所3年サイクルが理想だと思っている。昔、入社した頃、当時の局次長に言われたのが、1年目で全体を掌握し、2年目で増紙の端緒をつけ、3年目に成果をあげるつもりで仕事をしろということだった。私は、そんなこと言ってもみんな2年平均で替わるじゃないですかというと、とにかくそういうつもりでやれと言われた。今は携帯電話とパソコンが発達して、ずいぶんと仕事のスピードが上がったと思うが、人の心を掴む、あるいは動かすにはやはり3年計画の仕事が必要だと思う。そう考えれば、私は未だかつて満足に仕事をしたことがないことになる。

 担当員の仕事は販売店の増紙活動がしやすいように環境を整えることだと私は思っている。そのためには、販売所長との人間関係、信頼関係が重要だ。そして、産経新聞の専売網、販売網をどうやって維持発展させていくかを常に念頭に置いて仕事をしてきたつもりである。会社と販売店、部数と経費の間で悩みながら、どうすることが、今後の産経新聞の増紙のために有益かということが常に私の頭を悩ませてきた。人はそれぞれ考え方が違う。また、時の政権の方針も当然変わってくる。そういう葛藤に折り合いをつけながら、今まで生きてきた。そして、私には私の人生観がある。人生観の違いは一朝一夕では乗り越えられない。私はただ上の言うことだけを聞くロボットにはなりたくないし、ましてや集金担当にはなりたくない。私は野村克也が実は結構好きで、生涯一捕手ならぬ生涯一担当というのにもあこがれてはいる。

 人はなぜ出世したがるかと言えば、いい給料をもらうというより、ランクが上がればそれだけ、自分のやりたい仕事が出来るようになるからだと思う。しかし、そう考えた時、私の理想とする仕事は社長にならなければ多分出来ない。入社の時の社内報の自己紹介アンケートで、どこまで行きたいかという質問に、専務取締役販売担当と、大胆にも書いた私だが、多分専務では無理。もしかすると、うちの社では社長でも無理かも知れない。そう悟った時、目先の次長だの部長だのにこだわったら、きっと産経新聞の将来のためによくない(と自分では思う)仕事をしてしまうのではないかと考え、会社が要求することというのではなく、自分が産経新聞の将来のためになると考える仕事に、現在の与えられたポジションで出来る事を全身全霊を傾けてやろうと思ったのだ。だから、本当は私のノウハウなり何なりを生かして産経の増紙に貢献できるのは絶対にウェーブ産経だと自分では思っているのだが、会社がたとえば宮城の担当をやれといえば、そこを全力で、たとえば川崎の担当をやれというのならば川崎で何とか産経の読者を増やしたい。その一点に尽きるのだ。従って、生涯一担当員が似合うかななどと自分で悦に入っているのだ。

 それにしても、近頃のガキは一体何なんだと思う。根性がないとかいう以前の問題だ。2年連続で大卒新入社員が早期退職してしまった。もう、これからの若い奴には担当員なんて務まらないのではないかと思う。今年の野郎には目をかけてやろうかと思っていた矢先にもう辞めやがった。いっちょう、追いかけてって、落とし前つけさせるか。指でもつめさせて。

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