憎悪、怨念、愛、打算そしてビジネス(平成14年5月4日)

 先日、ある会合で、新聞販売店の同業者の会合が開けない地区というのはどういう理由からなんでしょうかねえと問われた。私は一言、憎悪と怨念ですよと答えた。お互いの顔も見たくないような事をやっているから、会合など開けないし、逆に日頃から顔を合わせていれば、あまりえげつないことなど出来ないという意味合いで申し上げた。しかし、この憎悪と怨念というやつはやっかいである。新聞販売業は本来、市井の八百屋さんや肉屋さんと同じように地域の個人商店である。地域に密着した商売のはずなのだが、現実には地域の一人一人のお客さんよりも発行本社を見て仕事をせざるを得ない。個人の商売としては、メーカーより顧客あるいは自分の店の経営の方が大事なのにメーカー同士の思惑の方が優先する。そして、メーカーの親衛隊として損得抜きの戦争を繰り広げるというわけだ。結果として、えげつない拡材戦になり、煮え湯を飲まされた方は仕掛けた方に怨念を持つ、そしてそれは果てしなく繰り返されて行く。仮に販売店同士ではうまくやろうと思ったとしても、好戦的な販売幹部、好戦的な担当社員の下では、それは仕事しない店に映る。逆らえば改廃もあり得るのだから、それが嫌なら多少のえげつなさは目をつぶって戦争に突入せざるを得ない。やられた方は、それが本社の命令だと分かっていても、直接殴っているのは、目の前にいる対抗店だから、どうしてもその店主に対して憎悪を抱く。こうして憎悪と怨念の連鎖は続いていくことになる。

 本社間では戦争は当たり前だから、憎悪と怨念という言葉では説明がつかないように思う。所詮直接殴り合うのは現場だからだ。本社間まで憎悪と怨念が渦巻いていたら、とても毎月、新聞協会の理事会だの、中央協だの地区協だの支部協だのとやっていられないだろう。まあ、過去には支部協で灰皿を投げ合うなんてこともあったようだが、今はそう言う話は聞かない。みんな大人になったのだろう。しかし、昨年末の産経に対して各社がやったことは確実に怨念を生んだ。困ったことにこれは現場同士ではなく一つの販売店を挟んで発行本社が睨み合う形になったからだ。産経社は別に複合取引の三社系統の販売店に対して、来月から取引停止すると通告した訳ではないのに、一方的に読者に対して来年から配らないと言ってまわったのだ。首都圏での、限定された地域での出来事ではあったが、産経の東京本社全体に三社への憎悪を残した。あたかも、日清戦争後の三国干渉に対する臥薪嘗胆の合い言葉のように。表面上はみんなニコニコ仕事していても、おそらく深層心理染みこんでいるだろう。個々の販売店とは、その後は良好な取引を続けているところもあるし、それこそ引き取らせて頂いた販売店もある。引き取ったお店には当然切替作業をされたが、その店としては自分のところの読者を売り渡さなければならないのだから、そりゃあ必死でやるだろう。自分がその立場に立てば、店の経営を守るためなら何だってやるかもしれない。おまえは今実際にやってるじゃないかと言われるだろうが、まあ、自分としては、読者を敵に回さないような方法でやりたい。しかし現実に動く、例えば電話セールスチームなどは相当にフラストレーションが溜まっていることも考えられる。汚いやり方はしたくはないが、横浜のA販売店や千葉のM販売店のやったことについては責められないと思う。

 タイトルが憎悪、怨念、愛、打算そしてビジネスとなっているのだが、愛や打算の話がないじゃないかと責められそうだ。まあ、憎悪や怨念は裏返して言えば、自紙への愛、本社との取引上の打算から来る。そして、最終的には全てがビジネスとして収束するはず。ところが、以前にも述べたように、新聞販売業界は右の頬を殴られたら、全力で殴り返すというヤクザの方程式が成り立っている世界だ。産経は全力で殴り返さず、ただひたすら耐えながら、新しい方策へと土俵を替えて行っている。だが、殴られた痛みは消えても心の傷が残る、あるいは自分の身内が殴られれば、自分は痛みを感じなくても悔しさを共有するのと同じで、我々の心に深く染みこんだはず。担当員の引き抜きまで起きればなおさらだ。

 ここまで書いて、ふと思ったのは世界情勢の話、イスラエルの兵士は一人一人のパレスチナ人には何の恨みもない、ロシアの兵士は一人一人のチェチェン人に何の恨みもない。おそらくその逆も真だろう。しかし、パレスチナやチェチェンの民は深くイスラエルやロシアを憎んでいる。戦争は始めるより終わらせる方が難しいという言葉も浮かんだ。新聞業界も世界情勢も共通する部分があるもんだ。

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