インターネットが見出し人間を増やす(平成14年4月17日)

 吉田拓郎の唄に「ひらひら」という唄がある。1973年のライブ収録のアルバム「ライブ’73」で発表された曲だが、その歌詞に、「喫茶店に行けば、今日もまた、見出し人間の群れが押し合いへしあい・・・」、「ラッシュアワーをご覧よ、今朝もまた、見出し人間の群れが押し合いへしあい・・・」とある。見出し人間とは何かというと、喫茶店に置いてある新聞、週刊誌の見出しだけ見る、あるいは朝のラッシュアワーに電車の中吊り広告の見出しだけをみて、世の中のことを判断し、背景や本質を深く考えない人間のことだ。拓郎自身の婦女暴行容疑での逮捕経験(嫌疑無しで不起訴になった)とその時マスコミに叩かれ、多くの人に誤ったイメージを植え付けられた経験から出来た唄である。見出し人間は、週刊誌の見出しに踊った、「よしだたくろう婦女暴行!?・・・」の活字に乗せられ、そうか拓郎ってのは唄も軽いけど、やっぱりそういう人間なんだとか、有名人なら何しても許されるんだろうって思っっている不遜なやつだと思った人達のことだ。

 あれから30年経った。今、世の中には週刊誌の中吊り広告に加え、インターネットのニュース速報という、もっとお気楽な見出し人間製造装置が登場している。この文章は最初お気楽極楽に書いていて、新聞裏話かな?、罵詈雑言に書くかなと迷ったのだが、紙媒体としての新聞の使命は極めて重要であるし、話がネットと新聞の連関になったので、結局こっちに載せることにした。私もi-modeでニュースを見る方なのだが、はっきり言って見出しの羅列を見ているだけだ。おそらく、それで済ましてしまう人は多いだろう。ただでさえ活字離れが急激に進んでいる今の日本である。見出しだけ見て済ましてしまう人間は30年前よりはるかに多いはずだ。新聞も本もなかった時代は情報自体が少なかったから、余計なことを考えないで済んだ。しかし、今は、背景も本質も分からない単なる情報が溢れかえり、そのことによって右往左往させられることが少なくない。TV、ネット、広告と情報の洪水の中で我々は今暮らしている。見出し人間はますます増えるだろう。

 新聞を取らない理由の一つに、「ニュースはテレビで見るからいい」という言い訳がある。これからは、ネットで見るからいいという理由が加わるだろう。それは何を意味するか。新聞が、テレビやネットが提供する以上の有意義な情報を伝えている媒体だという認識を読者に与えられないということだ。一言で言えば、新聞はつまらないのだ。テレビで見て知ってるよとか、ネットで見たよとかいう延長線上の記事しか載ってないと思われているのだろう。特に共同通信の記事を垂れ流している地方紙、あるいは、一つの記事を短くしてなるべくたくさんの記事を載せるという編集方針を採っている新聞においてはそれが顕著だ。産経新聞は夕刊を廃止して、解説性中心の紙面に脱皮しようとしている。もともと、読者から読むところが多くて困るとお褒めの言葉を頂くことが多かったのだが、ようするに今後、前日にテレビで見て知っているようなことはさらっと流して、そのニュースの背景と本質を探るというのが、今後の産経の編集方針になるのだろうと思う。

 編集面に限らず、産経のやっている挑戦こそが、紙媒体としての新聞の生き残れる可能性を模索するものだ。インターネットで速報性は極限まで進むのだから、新聞はそんなものと競争してはいけない。地方紙において、その地方のことはその新聞を読まなければ分からないというような、差別化され、特化された紙面編集をしていかなければ、逆に地方から、ある日突然読者が大規模に消滅するなんてことが起きかねないと思う。手前味噌だが、やっぱり新聞の衰退は文化の衰退だと思う。文字を読まない人間が今後どんどん増えれば、いつの間にか、人の頭脳は太古の昔に逆戻りなんてことになるかもしれない。紙媒体としての新聞は、生き残ることもさることながら、新しい意味づけをもって、読者に受け入れられ、もっと深く読んでもらえるような媒体に進化しなければいけないと思う。新聞の販売だって、今までの洗剤B券配達だけではいけない、新聞それ自体が情報媒体として魅力ある物だという売り込み方をしていかなければ。

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