今年のしし座流星群(平成13年11月23日)

 既に数日が過ぎてしまったが、今年のしし座流星群はそれはそれは凄かった。まさに天文ショーだった。皆既日食に匹敵する、いや、それ以上の天文ショーだった。イギリスの天文学者デビッド・アッシャーがわざわざ来日して記者会見し、ZHR8000の可能性があると発表しただけのことはあった。国立天文台は否定的な見解だったが、よい方にはずれたのだからまあいいだろう。普段は星空など見上げない、あるいはそもそも星なんか見えない人たちまでが、19日未明のLEONID METEOR SHOWERに狂奔した。
 私が初めて流星群という言葉に触れたのは1972年10月、あのユーミンの歌にも出て来る、ジャコビニ流星群だ。その日、小3の私は兄と一緒に夜空を見ていたが、ずっと曇っており、あきらめて寝てしまった。そして結果は歌の通り、「シベリアからも見えなかった」という不発だったのだった。それからしばらく流星群とはおさらばしていたのだが、会社に入って何年目かに、CHBの連中と富士山にキャンプに行き、そこで見たペルセウス座流星群によって、私の流星熱は復活したのだった。その後、毎年8月12日前後にペルセウス座流星群を見に行くことは別項のユーミン・陽水・流れ星でも述べている通りだ。
 そして、1998年、最初のしし座流星群狂想曲がやってきた。前年に母彗星である、テンペル・タットル彗星が回帰し、当然のことながら天文ファンの間では大変な話題となっていた。私も当然大流星雨を期待し、野辺山高原に陣取った。今年と同様、月が沈み、快晴で、条件最高だったのだが、日本では期待された流星雨は見られず、欧米で大出現が観測された。それでも私は100数十の流星を見られて満足だった。翌年は極大日が曇天。しかしながら、極大日の翌未明に別の回帰年の塵帯に突入するとの情報をネットで仕入れて、急遽飯綱高原に急行し、1時間に100個以上という結構な流星群を見ることが出来た。昨年は、月齢その他の条件が最悪で最初からあきらめ。
 そして今年は先述のように、大出現の予測と、天候、月齢ともに条件最高ということで、私は宮城県内で見て、新幹線で出社するつもりだった。だが、なんということか、世紀の大天文ショーが期待されているというのに、会社は19日朝8時半から会議をセットしてきた。私は泣く泣く新幹線での帰京をとりやめ、車で帰り千葉から車で見に行って、車で帰って来れるところに観測地をセッティングせざるを得なくなった。その場所は、茨城県太洋村である。南に鹿島臨海工業地域、北に水戸市の明かりが煌々と輝くこんなところで見たくはなかったのだが、会議に遅刻したりすれば、即リストラだのヘチマだの言われかねない状況では最良の選択だった。
 そして、午前2時半に現地に到着した私を待っていたのは、息もつかせぬ、カウントすら許さない、次々に流れる星たちだった。98年も99年も経験しなかった大量の流れ星。私はあきらめずに見にきてよかったと思うと同時に、これが、長野だったら、宮城だったらと悔やまれて仕方なかった。来年以降はまた条件が悪くなるようだし、しし座群がこんなに見られるのはこれが最後かもしれない。あとは、ジャコビニにかけるしかないか。あれだけのものを見ると、もうペルセウス座流星群なんて馬鹿馬鹿しくて、って言ったら失礼なのだが、ちょっとやそっとの流星群じゃ見る価値がないと思ってしまった。今年のしし座群はそれ程の価値があったのである。

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