転落はいつも美名から始まる(その2)(平成14年1月25日)

 さて、ワークシェアリングをやり玉にあげた訳だが、今日は男女共同参画社会についてやり玉にあげようと思う。私は昔から男女同権主義者である。何をーっと怒る人がいるかもしれないが、例えば、自分の後継者を指名する場合に、男と女の候補がいたら、有能な方を選ぶ。男を優先するなんて考えは全然ない。しかし、これはあくまでその女の子がやる気があって、努力していて、今後の展開が吉と出ると判断出来た場合である。

 話がそれたが、私は機会均等主義者であるので、男女雇用機会均等法などにはあまり頓着していないが、今回の男女共同参画社会基本法とそれを推進しようとしている勢力のやろうとしている事には戦慄を覚える。連中の目指しているモノが、男女の結果平等社会であるからだ。その端的な例として、というより、気が狂っているとしか思えないのが、あの、「助産師」問題である。そりゃあ、看護師や保健師は百歩譲って認めてもいい。しかし、助産師とは一体なんだ。そもそもなる奴もいないだろうし、男の助産師に出産の手助けを受けたいと思う者もいないだろう。最大の問題は、この基本法が方針や認識を定めるとしながら、実際には「ねばならない」式の義務規定になっていることだ。男と女の間には、生殖活動における役割分担という、最大かつ絶対越えられない一線がある。助産師はこれを全く無視し、単に法律でそうなっているから変えるというに過ぎない。そもそも、男女共同参画社会というものを、法律で、義務で縛っていくということに私は反対なのだ。

 能力があるにもかかわらず、女性であるというだけで昇進が遅れるといった差別はいけないことだと思うが、何故女性であるが故に昇進させないのかといえば、まだまだ信用出来ないからである。結婚したら家庭に入りたいという女性(男性も)はその旨を宣言すべきである。あるいは、この仕事を貫徹すると宣言した女性(男性も)は結婚しても、仕事を続けるべきである。企業体というのは個々人の能力とその継続性とに生存を委ねているのであって、それを途中で切られる可能性があるような選択は出来ないし、すべきではない。有能かつその有能性が継続的に発揮できると認められる場合は、当然男女差別をしてはならないし、世の中の人全てがそういう認識を持つべきである。

 しかし、基本法は何から何まで男女平等でなければならないとする。しかも、それはどう読んでも結果の平等を求めるものだ。その行き着く先は、究極の男女の役割否定であり、社会の混乱を引き起こしかねない結果を招くと私には思える。前回も述べたが、ある一定の勢力が出来るとその勢力は既得権益を持ち、全体に対して圧力団体となっていく。その勢力とは、出産は女の特権ではなく、女の苦痛であると考える勢力だ。基本法に言うような考え方よりも、子を持つ母親(父親も)が、安心して働けるような社会的ケアを整備するのが先決であって、先に助産"師"ありきではない。昔人口の大半が農業に従事し、夫婦で農作業をしていた頃、子供の面倒は祖父母や兄姉が見ていた。核家族化が進み、もはや古い大家族に戻れなくなった今、もはや家族が子育てをケアすることは不可能に近い。そこで社会的ケアが必要なのだが、これ以上家を壊す夫婦別姓(=親子別姓)などは論外だ。隠れ共産主義者(結果平等主義者)達は核家族だけでは飽きたらず、全てを個人に帰する方向へ社会を持っていこうとしている。それが、日本だけでなく、人類社会の転落を招くものであることに、まだ誰も気付いていないのではないか。

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