歩道橋の殺人者は誰か(平成13年7月24日)

 明石海峡大橋の麓で行われた花火大会の会場に通じる歩道橋で、将棋倒しにより、8人の子供と2人のおばあさんが殺された。事件当夜から翌朝にかけてのニュースでは、茶髪の若者達が暴れていたという報道が主流だったが、翌日から、主催者及び警察当局の警備上の不備に一斉に矛先が向き、現在もその流れは変わっていない。警備上の不備は確かにあったのだろう。しかし、本当の原因は他にあるのではないか。

 それは、現代日本人の失われた危機意識と私を公より優先する風潮ではないかと私は考える。

 大体において、あの程度の歩道橋一本しかないところへ容量オーバーの人間が詰めかければ、将棋倒しだけでなく、いくらでも危険を感知出来るはずだし、歩道橋そのものの安全性に疑問を抱く、つまり歩道橋が落ちるとの畏れを抱く、のではないか。歩道橋は頑丈だからびくともしない、あるいは日本の最近の建造物は耐震建築だから、人がたくさん乗ったくらいで潰れるはずがないという思い込みがあるのではないか。人がたくさん集まりおしくら饅頭状態になれば酸欠状態が起きるというようなことはもちろん考えないだろう。歩道橋の下からでは上がどういう状態になっているか分からないという人もいるだろうが、人波が停滞して動かないということは、ぎゅうぎゅう詰めだということである。それにもかかわらず、無理に昇ろうとするというのは、平和ボケの危機管理意識ゼロの日本人としては至極普通の行動なのかも知れない。

 そして、身動きがとれない状態であるにもかかわらず、無理に歩道橋に昇ろうという行動は、「いいところで花火が見たい」「早く花火が見たい」あるいは「早く駅に着いて帰りたい」、そのためには自分が真っ先に目的地に着きたい、他人は関係ないという態度である。"私"の幸福が、全体="公"の幸福に優先する瞬間である。

 戦後日本は、戦前の国家主義への嫌悪から公=国家として、公よりも私を優先する個人主義を推奨してきた。その結果が今回の将棋倒しではないのか。警備上の責任はあるにしても、私を優先した自分達の責任を棚に上げて、主催者や警備当局の責任追及ばかりをする姿を見ていると、なにやらPL法で訴訟を起こされている企業を見ているようだ。今のままの日本人の精神構造が続けば、今後もこの手の事件は起こるだろう。そして、死ぬのはいつも老人と子供だ。彼らは戦後日本精神の犠牲者である。

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