正義・公正という言葉の裏側(平成13年3月26日)

 アメリカの司法省は英語で「Justice Department」である。直訳すれば「正義省」とか「公正省」になるのかと思ったが、日本の法務省の英訳も「Ministory of Justice」である。何故、日本語では司法省とか法務省というのかとよくよく考えてみたら、「Justice=正義」とはつまり、「ルールを守ること」という事なのだなと理解出来た。アメリカ人の好きな「Justice」とはつまりはルール遵守ということか。ところで、ルールは誰が決めるのかといえば、人間である。但し、欧米では「The Creater=創造主=神」の存在が大きく影響している。日本で言うところの、「お天道様に恥じない」ということである。人間が人間間の調整を目的としてルールを定めるとき、そこには必ず、道徳観念が入る。道徳観なき正義というのは本来ないはずである。道徳を突き詰めれば、本来の意味での公共の福祉とも言えるのではないか。

 日本では、正義というと悪の反対語のように考えられているところが多分にあり、誰かを悪と認定すれば自動的に対立者が正義の味方となる。水戸黄門や仮面ライダーのように単純なお話ならそれでもよいだろう。しかし、ひとたびそれを実社会に当てはめれば、正義だの悪だのとは簡単に決められないのが道理だ。

 最近の話で言えば、田中康夫はあたかも、「コンクリートダム」は悪であるかのように決めつけているし、諫早湾の水門も当初は悪玉扱いだった。この2つの件についていえば、前者ではその決めつけに対して、信頼していた特別秘書が辞任するという事態を呼んでいるし、後者では、水門周辺の漁民は水門を開けることに猛反対である。原子力発電の問題などもその範疇に入るだろう。

 事ほど左様に、人間の実社会では、善悪など簡単に決められないことが多い。しかし、正義面をするやつが多いのもまた事実である。ルールは人間が決めると書いたが、現在の民主制の下では、多数決であるから、支持の多い方が正義となる。あるいは、支持の少ない奴は悪と決めつけられると言っても良い。もし、完全な弱肉強食の世界なら生き残った方がルールとなるから、勝った方が正義、勝てば官軍となる。勝った方は負けた方に対して、自分の倫理観を押しつける、負けた方は逆らえば殺されるのだから、死を覚悟しない限り受け容れるしかない。

 アフガニスタンのタリバンが仏像を破壊したことで一悶着起こっているが、彼らにとって、偶像は悪以外の何者でもないのだから壊して当たり前である。彼らは彼らの信じる正義を行ったのだから。しかし、もし、隣に強烈な仏教国家があって、宗教戦争をしかけ、なおかつ仏教側が勝てば、彼らは、悪として断罪されるだろう。東京裁判のように。

 戦後民主主義と東京裁判史観はまさしくこれに当てはまると思うのだが、相変わらず、昭和20年までの日本は全て悪と見る人が多い。戦争で敵対した国がそれを言うのは当たり前だが、いい加減、連合国は正義で日本は悪という考え方は考え直すべきではないだろうか。

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