人一人死ねば歴史が変わる(平成13年1月31日)

 一人の生命は地球より重いという考え方がある。私はこの考え方には賛成できない。一人の生命のために地球は犠牲に出来ないからで、普通の人ならそう思うと思えば、頑なに人命尊重の旗印を守ろうとする連中がいる。大体、そう言う連中に限って「神風特攻隊」は犬死にだなんて言う。そのカミカゼを恐れたアメリカで最近作られている映画に妙にカミカゼ的なものが目立つのはどういうことだろう。「インディペンデンス・デイ」、「ディープ・インパクト」、「アルマゲドン」、いずれも自己犠牲を賛美する結末である。そして、映画の中では彼らの死によって地球は救われた。

 一方で、自分なんか居なくても世の中何も変わらないと嘆くものが居る。世に拗ねて自殺するものも古今東西後を絶たない。自殺はともかく、自分一人くらいという考えでサボタージュする奴にいたってはそこら中にいるだろう。自分は所詮会社の歯車で、歯車は交換が利くと思っている人もいる。その自信のなさは確かに会社にとっては害悪でしかないだろう。しかし、その一人がいなければ、確実に他の人間の仕事の内容が変わる。自分一人くらいといって、この世から消える奴がいれば、その周りの人間の人生は多かれ少なかれ影響を受けるだろう。友人の一人が、病気で22才でこの世を去ってから、まもなく満15年になる。その間の自分の人生を考えてみれば、どう考えても同じ経路をたどっているとは思えない。仮に産経新聞社に入社していたとしても、今と同じような考えで仕事をしていたかどうか。もっと強い仕事をしてきたかも知れないし、もっと弱いかもしれない。同じということは考えられない。それは周囲にいた人間全員に当てはまるはずだ。

 影響を受けている人間が5人もいれば、その5人の影響を受ける人間が5人として30人、さらに5人として180人、影響は無限大に広がっていく。結構世の中の方向性はねじ曲げられているのではないか。もちろん、そうしたことの集合体として社会が構成されている訳だが、彼が死ぬことが、予定されていない死だったとすれば、歴史は変わったのだ。織田信長があと10年長生きしたら、日本に産業革命が起きていたかもしれないという人がいる。歴史にIFは禁物と言うが、IFを考えなければよりよい方向には向かないのではないか。いずれにせよ、人一人死ねば歴史が変わるというのが私の持論である。

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