当たり前のこと(平成12年10月4日)

 先日、夜遅く松本から長野へ帰る途中、空気が澄んで星がきれいだったことがある。思わず、高速の路側帯に車を止め、しばらく星を眺めていた。木星と土星がおうし座付近にあり、私の好きな"すばる(プレアデス星団)"もありぐるっと見渡すと、天の川がよく見える。高校3年の時、放送部の合宿で河口湖に行った時の1年生の言葉を思い出した。「ああ、こんなに星のよく見える所に住んでいたら、視力もよくなるのになあ」

 長野県では、一歩市街地から離れれば、天の川は、天気さえ良ければ見えて当たり前である。一方、東京圏に住んでいると、天の川を見ることは一生ないかもしれない。長野では、天の川は当たり前のことであり、東京では見えないのが普通だ。環境が違えば、当然、人間の考え方も違って来るだろう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は砂漠で生まれた宗教である。仏教や日本の神道は森で生まれた宗教だ。正反対の環境で生まれた宗教は自ずと性格が違って来る。砂漠の宗教は生き残りをかけた、いろいろな意味で厳しい宗教であり、森林の宗教は生死を超えたところから物事が始まる。

 果てしなく続くイスラエルとパレスチナの闘いや旧ユーゴ紛争を見るとき、そう言う意味での宗教戦争は日本を含む東アジアではほとんど起きていないことに気付く。日本で唯一宗教をめぐる戦争は、聖徳太子が参加したという蘇我と物部の争いだけである。一向一揆や日蓮の弾圧はあくまで政治と宗教の戦いであり、宗教同士の争いではない。十字軍を見る間でもなく、他の宗教を認めず、自らの宗教が絶対であるとする宗教は始末に負えない。そして、その三つの宗教が世界人口の2/3以上を占めている。相手の宗教を認めない限り、戦争のない世の中は来ないのではないか。天の川を見ながらそんなことまで考えてしまった。

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