用語説明・注釈



【イスラム協会とムスリム青年組織】

イスラム協会はカブール大学の神学部教授たちが作った団体。はじめのうちは翻訳やイスラムの啓蒙運動などのを行う文化活動体だった。協会は学生たちが主催していた勉強サークルを取り込み、そして1968年生まれたのが「ムスリム青年組織」という下部組織である。ムスリム青年組織は協会のなかでも過激な行動部隊となっていく。それは、60年代なかごろからアフガニスタンに共産主義の勢力がかなりの勢いで浸透してきたからだ。政府に影響を与えることはなくても、学生には共産主義は広まっていった(これはどこの国でも見られることだと思う)。これに神学部の教授たちが焦りを覚え、学生を取り込むための団体を作ったのである。

【ブルハヌディン・ラバニ】

カブール国立大学神学部教授。ニアズィーのイスラム団体建設運動に参加。イスラム協会の代表になり、ソ連介入期はマスードらを率いてソ連に抵抗した。ソ連撤退後はアフガニスタンの大統領になる。現在でも国連の代表権を持っている。タジク人。

【グルブディン・ヘクマティアル】

ラバニらが作ったムスリム青年組織に学生のときに入団し、やがてその中で発言力を強めていく。ラバニら長老派と反政府運動の方法論から軋轢が生じ、イスラム協会から脱退。そして自ら「イスラム党」を作る。ソ連撤退後のムジャヒディン政権では、アフガニスタン首相になる。ケンカ別れしたラバニとヘクマティアルが大統領と首相、、、上手くいくはずもなかった。またマスードとの仲は最悪。パキスタンが彼を利用しようと考え、他の組織よりもかなり多くの援助金を与えていた。しかしアフガン内戦ではラバニ・マスードらに阻まれ、勢力を伸ばすことが出来ず、タリバン登場後はパキスタンからも見捨てられた。ヘクマティアルはパシュトゥン人。

【アハマド・シャー・マスード】

ヘクマティアルと同じく、ムスリム青年組織に学生のときに入団。ダウドのクーデター後、強硬派のヘクマティアルの呼びかけで反政府ゲリラ活動を展開し、いったんは成功を収めたものの、戦略的に甘かったために結局は失敗。この失敗が原因でヘクマティアルとの仲は最悪になった。以後、ペシャワールでゲリラ戦の猛勉強をし、ソ連介入期はラバニの元で英雄的なゲリラ活動を見せる。「パンジシールの獅子」の異名を持つ軍事の天才で、アフガニスタンでは英雄的存在。ソ連撤退後は国防相を務める。現在は各ムジャヒディン勢力の残兵を集めてタリバンに対抗する「北部同盟」の司令官をしている。彼もラバニと同じタジク人。(日本では写真集が出版され、展覧会も開かれた)

【イスラム党】

強硬派が主張した反政府ゲリラ活動が失敗に終わり、協会から離脱することになったヘクマティアルが旗揚げした団体(1976年)。離脱の背景にはラバニ派との意見の対立もあったが、ヘクマティアル個人に対するパキスタンの援助があったことも一因だろう。増強の一途をたどるダウド政権のパキスタン干渉に対して、パキスタンのブット政権は対抗措置をとらざるを得なかった。そこでパキスタン政府が注目したのが、ペシャワールで反政府強硬路線を主張していたヘクマティアルだった。ヘクマティアルはパキスタンの援助により、軍事教練キャンプでの権限や活動資金において、ラバニのそれよりも遙かに凌駕していた。

【アフガニスタン・イスラム革命運動】

1978年、ダウドが共産党の手に掛かり暗殺されるとアフガニスタンはより一層、共産主義・ソ連の影響を受けるようになった。これに抵抗するには反政府勢力を連合するべきだ、という考え方が生まれる。そして対立関係にあったこのイスラム協会・イスラム党が連合、それが「アフガニスタン・イスラム革命運動」だ。連合の新代表はナビー・モハマディー。しかしイスラム協会・イスラム党の溝はうまらず、また、イスラム党党首ヘクマティアルの軍資金持ち出し事件が発覚すると、アッと言う間に分裂することに。この分裂によりイスラム協会・イスラム党のどちらにも属さない勢力として「イスラム革命運動」は生き続けることになる。

【アフガニスタン国民救国戦線】

上記の「イスラム革命運動」が分裂して間もない1978年秋、新たな連合体が活動を開始した。それが「アフガニスタン国民救国戦線」である。代表はアフガニスタンで著名なイスラム指導者のシブガトゥラ・ムジャデディ(写真の人物)。彼はソ連撤退後、大統領になった人物である(ラバニはその次)。78年6月、ムジャデディとイスラム協会のラバニが接触し、協力して首都カブールにある共産党政権を打破するために活動を開始。ムジャデディはアフガニスタン国内、ペシャワール市内の各ゲリラ勢力に戦線への連合を呼びかけるが、呼応する勢力はあらわれず、また資金も武器もほとんどイスラム協会任せに近く、きちっとした軍事指令体制をつくることができなかった。嫌気をさしたイスラム協会は戦線からはなれ、国民救国戦線はムジャデディの元に残った人々で独立することを余儀なくされた。貧弱財政・軍事指令体制の欠如により、この勢力は弱小勢力の一つにとどまることになる。

【アフガニスタン・イスラム国民戦線】

連合体としての「アフガニスタン国民救国戦線」が活動し始めたとき、ペシャワールではあらたな勢力が生まれていた。それが「アフガニスタン・イスラム国民戦線」である。代表はサイード・アハマッド・ギラニー(写真の人物)。ギラニーは首都カブールで自動車販売を行い、富を築いたビジネスマンで、元国王ザーヘルとも親類関係にある。彼の元には旧体制の官僚や軍人があつまった。

【イスラム党ハリス派】

こちらは「アフガニスタン国民救国戦線」が分裂したころに発足した団体。ヘクマティアルのイスラム党から分派したユヌス・ハリスという人が組織した勢力。ハリス派は組織としては小さく、CIAやパキスタンの支援を引き出すことが出来ずに弱体化した。

【アフガニスタン解放イスラム連合】

79年のソ連侵攻を契機に再び反政府勢力の連合を求める動きがおこった。それはパキスタンやサウジアラビアの圧力によるものであった。1980年3月、ペシャワールに亡命していたイスラム勢力がすべて団結し、「アフガニスタン解放イスラム連合」を作る(ヘクマティアルのイスラム党は除かれたが)。アブドール・ラスール・サヤフ(写真の人物)という人が代表に。彼もイスラム協会の有力なメンバーだったが、1974年ダウド政権によるイスラム協会弾圧の際に逃げ遅れ、捕まっていた。そのサヤフが釈放されペシャワールに亡命、そして代表に就いたのである。サヤフが選任された理由は、釈放されてすぐだったためペシャワールでの亡命政治にまみれていないと判断されたこと、イスラム神学者だったこと、エジプトやサウジアラビアへの留学経験からアラビア語にも精通していたことが評価されたためであるが、この選択が裏目に出た。サヤフはきわめて野心的でこの連合を「サヤフ党」へと衣替えさせるべく狂奔しだす。連合内を分裂させるためにイスラム党に近づき、イスラム協会及びイスラム党ハリス派を連合から追い出すことに成功。そして追い出しが終わると今度はヘクマティアルとも対立。さらに彼はアフガニスタンのゲリラ司令官たちをペシャワールに呼びつけ、高額な給料で彼らを自分の部下にした。これにより、アフガン国内のゲリラ勢力も弱体化、そして当然のごとく1980年12月にこの新連合は分裂、サヤフはそのとき連合名を引き継いで新たな政党を発足させた。

【イスラム団結党】

イスラム教シーア派に属し、隣国イランの援助を受けてゲリラ活動をする勢力。ペシャワールで生まれた勢力ではない。シーア派組織は全部で8つあったが、イランの指導の元、それらは統一され「イスラム統一党」になった。しかしイスラム統一党もマザリ派とアクバリー派に分裂(マザリ、アクバリーも人名)。マザリ(写真左)は反ラバニ派、アクバリーはラバニ派としてソ連撤退後の内戦に絡んでいく。タリバン登場後、マザリのあとをハリリ(写真右)という人物が引き継ぐ(以後、イスラム統一党ハリリ派と呼ばれる)。

【イスラム国民運動】

ラシッド・ドスタム将軍の勢力(写真の人物)。彼は共産党政権時の軍人だったが、ソ連撤退後、共産党政権に見切りを付け、勝手にアフガニスタン北部地域を占領、以後そこに居座り続ける。ウズベク人。ウズベキスタンの支援を受けている。この勢力もソ連撤退後のアフガニスタンを左右する重要な勢力となった。

【ヘクマティアルとパキスタンのつながり】

文中によくでてくる「ヘクマティアルとパキスタンのつながり」について。ダウド政権以前から、パキスタンとアフガニスタンは国境問題でもめていた。そこでパキスタンは、ペシャワールに逃れた人々の中でもっとも過激な反体制活動をしていたヘクマティアルに眼を付けたのである。しかもヘクマティアルはパシュトゥン人、民族的なつながりもある。パキスタンには都合の良い人材だったのだ。タリバン登場までヘクマティアルは他の勢力よりも多くの支援を受けていた。

【過激な処刑方法】

タリバンはすべての文化と娯楽を禁じた。スポーツですら、禁止している。ところが処刑は公開で行われることが多い。なぜか?
一つには「見せしめ効果」があるからだろう。タリバンに刃向かった者はこうなる、と。そしてもう一つは、人々が求める娯楽の代わりに処刑を使っているのではないだろうか。過激な処刑、しかもそれは公開。ある競技場で行われた公開処刑には1万人以上の男性(女性は参加できない)が「見物人」として訪れていた。

【女性の存在を否定】

なぜタリバンはここまで女性に対して厳しいのか? アハマド・ラシッド著『タリバン』のなかで次のように分析されている。
タリバンを構成している「タリブ」たちは女性と関わりを持つことがなく、全くの男社会で育ってきた。マドラサ(イスラム神学校)では、女性の支配と事実上の排除が男らしさの力強い象徴であった。だから女性に自由を与えることは「女性に妥協した」として一般兵士たちの支持を失いかねない。
 また同著の中でタリバン幹部たちは次のようにコメントしている。「女性に自由を与えることによりタリブたちの“性的機会の可能性”が増加し、兵士たちは弱くなり、堕落し、これまでと同じ熱意では戦わなくなるだろう」
さらにタリバン幹部たちは南部の貧しい村々で育った。そこはとても保守的で女性は常に全身を隠さなければならないし、学校がないので少女たちは学校に行ったことがない。このような環境で育った幹部たちは、それが当たり前だと思っていた。
 つまり、「女性の存在を否定」しているのには、タリバン幹部の育った環境が大きく影響しており、そしてそれを実行してしまったために、後戻りができなくなってしまったのだ。

【アヘンの飛躍的増加】

国連麻薬取り締まり計画によると、95年のカンダハルでの麻薬生産は、2460ヘクタールのケシ畑から79トン。それが96年になると、3160ヘクタールの畑から120トン。次いで97年には、タリバンの支配がカンダハル州から北方に広がる中でアフガニスタン全体のアヘン生産量は25%も上昇し、2800トンになった。
 この麻薬は近隣諸国に流れている。パキスタンには79年にはヘロイン中毒者はいなかったが、86年には65万人、92年には300万人を数え、99年には推定500万人と言われている。イラン政府は98年、国内に120万人の麻薬中毒者がいることを認めた。実際の数字は300万人近いとも言われている。イランではほんの数オンスのヘロインを所持していただけでも死刑になる、にもかかわらずこの数字だ。99年1月の国際会議でタジキスタンは、アフガニスタンから同国に一日に1トンの割合で麻薬が密輸されていると報告。ウズベキスタンは98年にアフガニスタンから同国に密輸された麻薬が11%増えたと報告している。このように近隣諸国に流れた麻薬は、ロシア・EU・アメリカなどに渡る。

【運送マフィアによる密輸貿易】

この密輸貿易は1950年にパキスタンとアフガニスタンが結んだ「ATT協定」(アフガン・トランジット協定)が始まりだ。この協定は、パキスタンが内陸国のアフガニスタンに無関税の物資をカラチ港(アラビア海に面したパキスタンの港)から輸入することを認めたものである。運送業者はカラチからコンテナを運び、国境を越えアフガニスタンで一定量売り、残りをパキスタンに持ち帰って売った。パキスタン人はこのおかげで無関税で安い海外製品を手に入れることが出来たのである。設立当初から、この貿易システムには抜け穴が用意されていた、とも言えるだろう。

【彼らの起こしたテロ事件や関わりがあるとされる紛争】

これらはすべて、タリバンやビン・ラディンと何からの関係がある。スーダンは七章に書いたとおり、ビン・ラディンとのつながりがある。カシミールではタリバン兵やアラブ・アフガンがパキスタン側の戦士としてインド軍と戦っている。その訓練施設はビン・ラディンの軍事施設である。チェチェンのイスラム過激派リーダーは元アフガン戦士。中央アジア諸国のイスラム過激派はタリバンとのつながりがある。アルジェリアは最初のアラブ・アフガンが活動を開始した国。不正選挙から内戦に突入した。世界貿易センタービル爆破の実行犯はアラブ・アフガン。その首謀者アブデル・ラーマンを釈放させるために、彼の部下たちがルクソールでテロを行った。ビン・ラディンは彼らに資金を提供している。この様相はまさに「全イスラムを結んで入念に作られた個人と組織のネットワーク」である。

【パキスタンの仲介】

パキスタンはオサマ・ビン・ラディンにタリバンを紹介したかった。なぜなら、彼の豊富な資金とアフガニスタンに残した軍事施設「ホスト基地」をタリバンが使えるようになると、カシミール紛争に投入するゲリラ兵をかくまうための聖域が出来るからだ。パキスタンとしてはカシミールで闘争しているイスラム集団を自国内に留めておくことはまずい。カシミール戦士たちをかくまうことで「テロ支援国家」と呼ばれかねない。そこでタリバンとビン・ラディンを頼って彼らをアフガニスタンにかくまおうとした。

【肯定的なもの】

文中の通り、20年以上続いているアフガニスタンの混乱は肯定的なものをなにも残さなかった。しかし、一つだけあった。それがアメリカとイランの接近だ。98年以降、アメリカにとってこの地域の安定を考える上で、話し相手になるのはパキスタンではなくイランだ。それはお互いの恐怖の対象が同じだったからに他ならない。そう、それはタリバン、またはオサマ・ビン・ラディンである。もちろん、イランに改革派のハタミ大統領が現れなかったら、こうはいかなかったであろう。ちなみにイランは、イスラム世界で一番はじめに「公式に」タリバンの女性迫害について糾弾した国だ。アメリカがテロ支援国の烙印を押し、人権侵害が甚だしいと決めつけたあのイランが、である。