第七章

アラブ・アフガンとオサマ・ビン・ラディン



 アメリカの国際政治学者、サミュエル・ハンチントンはその著書『文明の衝突』の中で、アフガニスタン戦争を次のように述べている。

「この戦争のあとに残ったものは、イスラム教徒の不気味な連合で、全ての非イスラム教徒軍に対してイスラムの大義を主張しようとしていた。また、技術を持つ経験に富んだ戦士、駐屯地、訓練施設、兵站設備、全イスラムを結んで入念に作られた個人と組織のネットワークも残された。また大量 の兵器が残され、300基から500基のスティンガー・ミサイルの所在が不明である。そして特に重要なのは、自分たちが成し遂げたことから生まれる力と自信に満ちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった。」

(サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』375ページ 集英社 1998年)

アメリカをはじめとする西側諸国は、ソ連撤退によりアフガニスタンを捨てた。共産主義さえなくなればこの地は用済みなのである。しかしそれは大いなる誤算であった。その誤算に気づいたとき、彼らは自身の身をもってその代償を払わなければならなかった。「イスラムテロ」である、、、


 前章までが論文のメイン、「ソ連介入後のアフガニスタン内戦」についてである。前章までで終わりにしても良いのだが、せっかくアフガニスタンをやったからには、次の二つの問題を忘れてはならない。「アラブ・アフガン」と「オサマ・ビン・ラディン」である。この二つの問題は今日の世界を、そのなかでも特にアメリカを悩ませ、激怒させている問題である。

 「アラブ・アフガン」とは、ジハードの時に世界からやってきたイスラム義勇兵たちのことである。彼らはアフガニスタンで武器の扱いとゲリラ戦術を身につけ、世界中にムスリムの仲間を作った。ソ連の撤退後、彼らは母国にもどり、政治の腐敗や貧富の差を憂えた。そして行動を起こした。反体制活動である。彼らは武力を持ってこの状況を作り上げた現体制、現政権を打倒すべきと考えたのだ。それはまさに「ジハード」である。やがてこの活動は母国だけにとどまらず、各国の「ジハード」に参加していった。さらに湾岸戦争以後は反米的になった。イラクに対するアメリカの攻撃を「ユダヤと十字軍によるイスラムへの攻撃」とみなしたのだ。またアメリカ的自由経済は母国の貧富の差を生んだ原因である、と決めつけた。

 アラブ・アフガンたちがこのような考えを抱いたのには理由がある。ムジャヒディンがソ連を追い出した二年後、ソ連は崩壊した。これを彼らは「ソ連を倒したのは自分たちだ!」と認識したのだ。ソ連が撤退した理由は、一つにはムジャヒディンたちの抵抗があったからなのだが、それよりも、戦線の維持ができないほど困窮していたソ連国内の経済が破綻寸前だったからだ。そしてソ連が崩壊したのは外的要因ではなく、破綻寸前の経済とゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)・ペレストロイカの結果 、つまりは内的要因であった。アラブ・アフガンたちはこの現実を都合良く無視し、間違った認識と誇りを自らに植え付け、自国の政府やもう一方の超大国に挑んでいる。以下に記しているのが、彼らの起こしたテロ事件や関わりがあるとされる紛争である。

スーダン
カシミール(印・パ)
チェチェン(ロシア)
タジキスタン
アルジェリア
ルクソール観光客殺害事件 (エジプト)
日本人鉱山技師拉致事件(キルギス・ウズベク)
世界貿易センタービル爆破事件(アメリカ)

 世界各地からやってきた「イスラム義勇兵」は、世界各地に「アラブ・アフガン」として散らばり、世界各地で「イスラムテロ組織」として恐れられている。そのアラブ・アフガンの中でもアメリカがもっとも恐れている人物がいる。それが、オサマ・ビン・ラディンだ(写真の人物)。

 1998年8月7日、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が同時に爆破された。220人の死者を出したこの爆破テロにアメリカは激怒し、13日後の20日、スーダンとアフガニスタンの施設を空爆した。この事件の黒幕でアメリカを激怒させた人物こそ、オサマ・ビン・ラディンである。彼はサウジアラビアの建設会社社長、モハメド・ビン・ラディンがつくった57人の子供の17番目の子として生まれた。大学で経営学とイスラム神学を学び、サウジ王室とのつながりもある。彼は1980年、アフガン戦争にイスラム義勇兵として参加している。彼の仕事は、医療センター・軍事施設・武器貯蔵庫を作ったり、諸外国からの寄付金を集めることを主にしていた。ちなみにこの軍事施設や武器貯蔵庫の建設にはアメリカの資金も入っている。

 彼は多くのアラブ・アフガン同様、アフガニスタンで世界各国のイスラム指導者たちと親交を深めた。93年に起こった世界貿易センタービル爆破事件の首謀者で、エジプトのイスラム過激派「イスラム団」のリーダーでもあるアブデル・ラーマン(現在服役中)とも出会い、彼を師と仰いでいた。アフガン戦争後、ビン・ラディンはムジャヒディンたちの内戦に幻滅して母国サウジアラビアに帰り、家業の手伝いをしていたが、91年の湾岸戦争でのサウジ王室の政策(サウジにアメリカ軍を駐留させ、イラク攻撃の支援をする)に激怒、王室を公然と批判した。これ以後、反政府活動を展開し、92年には王室から「ペルソナ・ノングラータ(好ましからざる人物)」と宣告され国外追放になった。

 そして向かった先がスーダンだった(1994年)。ここでカリスマ的なイスラム指導者ハッサン・トゥラビと出会い、行動を共にした。96年、アメリカやサウジアラビアの圧力によりスーダン当局はビン・ラディンに出国を要請し、彼は部下や家族を引き連れ再びアフガニスタンに戻った。そしてパキスタンの仲介でタリバンと出会い親交を深めていき、タリバン指導者たちに反米思想を植え付けた。このころには、世界中のイスラム過激派に対する最大資金提供者としてCIAから眼を付けられていた。

 そして1998年2月、ジハードの時にアメリカの資金で作った彼の軍事施設に世界中から仲間を集めて会合を開き、「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成。「軍人、民間人を問わず、アメリカ人とその同盟者を殺すという決定は、どの国で実行できるかを問わず、ムスリム一人一人に与えられた個人的な義務である」という宗教命令「ファトゥ」を発令した。そしてその半年後、大使館が爆破されたのだ。以後、アメリカはビン・ラディンを捕まえた者に500万ドルの懸賞金を出すと宣言し、いまもその行方を追っている。



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