第二章

ソ連介入前夜



 この章ではソ連が介入するまでのアフガニスタンの歴史をムジャヒディン達の活動を通して見ていくことにする。話は1950年代後半までさかのぼる。このころのアフガニスタンはまだ王制だった。憲法も制定されているので立憲君主制の国である。この国を統治する歴代の王たちはアフガニスタンを徐々に近代化していった。一例を挙げると、

  • 女学校を開設(短期間ではあったが)
  • 外国語学校を開設
  • エリート養成のためのカブール国立大学を開設
  • イスラム教ではお馴染みの、女性の顔を隠すための黒いベールを脱ぐことを奨励
  • 官僚には洋装を強制

    などを行った。もちろん、全ての国王が上記のことを行ったわけではないが、いずれにしろ、近代化に向けて進んでいったことは確かである。そのなかでもカブール国立大学は今後のアフガニスタンに大きな影響を与えることになった。この大学は既存の法学部や薬学部などの学部学校を統合した総合大学として誕生した。この大学に1958年、カイロ大学に留学していたグーラム・モハマッド・ニアズィーという人が神学部の講師として就任する。彼は学生や教授たちを中心にした“イスラム団体”を作るために活動を開始し、「イスラム協会」という団体をつくった。さらにこの協会はこのあと「ムスリム青年組織」という過激な組織を創り、60年代中頃から急速に影響力を増してきた共産主義勢力に対抗することになった。このイスラム協会に後の「ムジャヒディン」となる人物たちが顔を合わせることになる。その代表としてブルハヌディン・ラバニグルブディン・ヘクマティアルアハマド・シャー・マスードがいる。

     さて、王制アフガニスタンに突然の軍事クーデターが発生する。1973年7月17日、国王ザヒル・シャーが眼の治療のためイタリアを訪れいていた間、彼の甥であるダウド将軍(元アフガン首相)がクーデターを起こし、共和制へ移行させたのである。この新政府の閣僚14人中、7人はアフガニスタン共産党党員であり、また約160人の共産党員が行政官として地方に派遣された。このことからもわかるように、このクーデターには共産党の支援があったのだ。

     ダウド新大統領は体制固めのため、全ての政治グループを禁止した。イスラム協会もその例外ではなかった。クーデターが起こる前、すでにイスラム協会は非合法ではあったが政党として組織されていた。そのため、ダウドにより弾圧のターゲットになったのである。イスラム協会の主要メンバーはその動きを察知し、隣国パキスタンのペシャワールという街に逃げ込んだ(1974年)。前述したラバニ・ヘクマティアル・マスードもここに逃げ込み、さらにこの街にはイスラム協会以外で弾圧のターゲットになった人たちも多数逃げ込むこととなり、やがてこのペシャワールから反政府ゲリラがいくつも組織されることになった。そしてこの反政府ゲリラたちがアフガニスタンに介入したソ連を追い出すべく抵抗運動を繰り広げたのである。つまりペシャワールは「ムジャディン」たちの活動拠点となったのだ。このペシャワールで誕生し、ソ連を追い出すべく活躍した主な団体は以下の通りである。それぞれ詳しい説明があるのでそちらも是非見ていただきたい。

  • イスラム協会
  • イスラム党
  • アフガニスタン・イスラム革命運動
  • アフガニスタン国民救国戦線
  • アフガニスタン・イスラム国民戦線
  • イスラム党ハリス派
  • アフガニスタン解放イスラム連合
  •  またこれとは別にアフガニスタンの内戦に大きな影響を与える団体として、

  • イスラム団結党(のちのイスラム統一党)
  • イスラム国民運動(ドスタム将軍派)
  • がある。以上9つの勢力がソ連撤退後のアフガニスタンで権力の座を奪い合った。

     さてアフガニスタンでは、その勢力を拡大していった共産党による「流血の内部抗争」が起きていた。アフガニスタン共産党は1965年に結党したが、革命路線の相違により二つに分裂した。「ハルク(人民)派」と「パルチャム(旗)派」である。まず、1978年4月にダウド大統領がハルク派のクーデターにより暗殺。ハルク派のリーダー、タラキがつぎの大統領になったものの、またも暗殺。彼の後継者アミンもソ連進行時に暗殺され、パルチャム派のカルマルが大統領になった(1979年12月)。この間、わずか20ヶ月くらいの出来事であった。

     次の章ではソ連の侵攻、諸外国の支援、ムジャヒディン政権誕生までを見ていく。



    つづいて第三章

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