第一章

地理・民族・歴史



 この章ではまず 1:アフガニスタンの位置と複雑な民族構成 2:現在までの簡単な歴史 を記したいと思う。

 まず位置だが、右の図をご覧いただきたい。北方を旧ソ連の中央アジア諸国、西をイラン、東から南をパキスタンと接しているのがわかると思う。19世紀、アフガニスタンが「グレートゲーム」の舞台、と称された意味がこれでわかるであろう。北方のロシア、南方のイギリスとの争いの地であったからだ(イギリスはインド地方を支配していた)。アフガニスタンはこの二強国との間で翻弄された。ロシアの影響が強くなるとイギリスに近寄り、イギリスの力が増してくるとロシアと手を結ぶ、こうやって右往左往しながらも、アフガニスタンは形の上では独立を守り続けた。

 つぎに複雑な民族構成についてだが、最多の民族はパシュトゥン人である。最多とは言え、その割合は40〜60%くらい(文献により割合が違っているが、だいたいこのくらい)。その他はタジク人、ウズベク人、ハザラ人などである。ここで注目してもらいたいのが、周りの国々と各民族の関係だ。パシュトゥン人が最も多く暮らしているのはアフガニスタンの東南、パキスタンとの国境地域。パキスタンの西部地域にもパシュトゥン人が多い。タジク人、ウズベク人もこれと同じである。これは、近隣国が各民族にとっての本拠地であることを示している。ハザラ人だけは特殊で、主にアフガニスタン中部に多い。ハザラ人はシーア派であるため、イランとの関係が深い。私が思うに、昔はここら辺一帯は各民族が入り混じって(もしくは住み分けして)生活していたのではないだろうか。それを「一民族、一国家」という西洋の概念が浸透してきたため、“複雑な民族構成”と呼ばれる事態になってしまったのだろう。島国日本の我々には想像しにくいかもしれない。これらの民族がこの後登場するムジャヒディン達のバックについている、そしてこの内戦は各民族間の争いである、とする意見もあるが私はそれが本当の原因ではないと思っている。それについては追々書くとして、現在までの略歴に移りたいと思う。

 18世紀後半からその歴史をみていくことにしたい。18世紀後半、北のロシア・東南のイギリス・そして西のペルシアがその触手をアフガンの地に伸ばすようになる。ペルシアはすぐに手を引くことになるが、ロシア・イギリスは互いに譲らず。双方の国に翻弄されながらも、やがてアフガニスタンは独立に至る。しかし、独立したとしてもこの二国の影響はなくならなかった。この状況は第二次大戦後、イギリスがインドから撤退することにより一変する。イギリス撤退はソ連にしてみれば、目の上のたんこぶがとれたも同然。徐々に共産主義勢力をアフガンの地に浸透させていった。

 アフガニスタンは立憲君主制の国だった。ロシア・イギリスの干渉はあったが、形だけは独立していたアフガニスタンは賢明な国王の元で近代化を図る。これには皮肉なことに、ロシア(ソ連)やイギリスの影響を受けて近代化できたのだろう。この王制は73年まで続くことになるが、この年、軍事クーデターが発生して共和制の国に。このクーデターに深く関わったのがアフガニスタン共産党。新政権の閣僚のうち7人は共産党の出身者だった。これ以後、アフガニスタンはソ連の影響を直接的に受けるようになる。

 しかし、ソ連の影響を受けると同時に反ソ運動も起こるようになった。過去の忌まわしい歴史が影響しているのだろう、ソ連もロシアもアフガニスタンに住む人々にとっては名前が変わっただけのこと。よそ者が自分たちの生活を左右することには何らかわらない。反ソ・反共運動が起こったのは当然のことであったと思う。この抵抗運動により、国内の治安は悪化。ソ連はこれに目を付け、1979年12月、「アフガニスタンの治安を回復する」と言う名目で軍事介入。真の狙いは不凍港を求めてインド洋・中東に向かうルートを確保したかったと、いわれている。ソ連は10万人以上の軍隊を率いてアフガニスタンに介入。これに抵抗したのが反ソ運動をしていたイスラム教徒たちであった。

 祖国を救うべく、そしてイスラムを蹂躙するものを排除するために彼らはゲリラ戦でソ連に立ち向かった。また、他のイスラム諸国の教徒たちもイスラムの名の下にアフガンに馳せ参じてゲリラ活動を展開した。このゲリラ活動を支援していたのがアメリカとパキスタンとサウジアラビアである。アメリカは武器とゲリラ戦術を、パキスタンは訓練場を、サウジアラビアはその資金を、それぞれ提供し一流のゲリラを養成した。余談になるが、現在イスラム原理主義としてあちこちで「アラブ・アフガン」と呼ばれる人たちがテロ活動をしている。この人たちは、ソ連介入のときにアフガニスタンに馳せ参じ、ゲリラ養成所で訓練を受けた外国のイスラム教徒たちである。ソ連撤退後、彼らは自分たちの国に帰り反政府活動・反米活動をしている。アメリカがもっとも恐れる人物、「オサマ・ビン・ラディン」もその一人である。

 この抵抗運動と冷戦末期という時期が影響し、ついにソ連は1989年2月に10年近く続いた軍事介入から手を引いた。そしてそれから2年後、後ろ盾を失ったアフガニスタン共産党政権は崩壊、そのあとを引き継ぐ形で、反ソ抵抗運動の指導者たちが連合して政権を発足させることになる。アフガニスタンの人たちは彼らをムジャヒディン(=聖戦士)と呼び賞賛し、また世界の人々もゲリラ活動でソ連を追い出した彼らに期待を寄せた。

「これでアフガニスタンは平和になる」

そう思ったのだ。だが、それも夢の話となる。権力の座を巡ってムジャヒディン同士で仲間割れが発生したのだ。この仲間割れは内戦に発展、これ以後、首都カブールを中心に激しい権力闘争が繰り広げられた。その間、難民は400万とも600万ともいわれパキスタン・イラン・中央アジア諸国に逃れている。

 そんな状況が2年近く続いたあるとき、突如アフガン南部から新興勢力が現れた。これがタリバンである。このタリバン、アッと言う間に各地方の主要都市を抑えることに成功、ムジャヒディンたちはことごとく駆逐されていった。当初、アメリカを初め多くの国々はこのタリバンが内戦に終止符を打つだろう、と思っていたが、このタリバン、コーラン(イスラム教の教典)・シャリーア(イスラム法)を必要以上に過激に解釈しているのか、「超原理主義」と呼ばれる行動にでた。厳しすぎる処刑方法、極端な女性差別、アヘン生産の奨励などなど。こういう情報により、各国のタリバンに対する反応は硬化。タリバン政府を承認している国は、タリバンを支援しているといわれているパキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国だけである。

 このタリバンは破竹の勢いで各地のムジャヒディン勢力を倒していきアフガンのほぼ全土を手中に収めている、というのが現状だ。この新興勢力に唯一抵抗しているのが「アフガニスタンの英雄」「パンジシールの獅子」といわれるマスード司令官の「北部同盟」だけだ(彼についての詳しい説明は後で)。つまりアフガニスタンの現状は、

タリバン Vs マスード

ということになる。さて話は変わるが、この内戦が長引いた原因の一つに、中央アジアの石油や天然ガスを運ぶ、パイプライン建設問題があった。アフガニスタンを通る予定のパイプラインに、近隣諸国、アメリカ、ロシア、日本の権益が絡んでいる。このパイプライン建設問題とアフガン内戦は複雑に絡み合い、その姿はまさに「国際政治」そのものである。 この状況をパキスタンのジャーナリスト、アハマド・ラシッドは「第二次グレートゲーム」と呼んだ。。。

 以上がアフガニスタンの地理的状況と略歴である。学術論文とは一般の人向きには書かれていない、だから取っ付きにくいのである。その弊害がないように読みやすく書いてみたが、どうであろうか?(難しい文を書くのは自分としても面白くないし、なによりできない...) 以下の各章では今回の主役たち、ムジャヒディンの闘争の歴史を追いつつ、現在に至るまでの細かい歴史を見ていくことにする。



つづいて第二章
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