産経新聞と私

(平成12年11月)

産経新聞は日本に必要な新聞です  
 この10月、産経新聞社は45年間住み慣れた旧東京サンケイビルから、すぐ後ろに建った、新東京サンケイビルに移転した。何しろインテリジェントビルというだけあって、居室内完全禁煙の飲食禁止である。住み心地悪いことこの上ない。これを打っている今日は社員証を忘れてしまい、外部からの来客と同じ入構証をつけて入り、恥ずかしい思いをしている。

 産経新聞は「新聞はみな同じではありません」というのをずっとキャッチフレーズにして来ている。世の人達は、新聞なんてみんな書いてあることは一緒で、洗剤やビール券で乱売合戦を繰り広げているだけと思っている人が多いが、そんなことはない。少なくとも産経だけは、1000万部や800万部という部数があったら言えないことを言っている。誰もが疑問に思わない戦後民主主義の正義、不磨の大典日本国憲法、誰も文句をつけられない人権という名の差別、日本人が生理的に嫌う戦争或いは軍隊(自衛隊も含む)といったことに対する客観的な視点、中国やソ連、北朝鮮に阿らない等々、様々なタブーに挑戦し、「ハッキリものを言う」ことを標榜している。今でこそ、読売新聞は産経寄りの論調になり、あたかも昔からそうであったかのように論陣を張っているが、ほんの10数年前までは朝日、毎日、共同通信と同じスタンスだった。その間一貫して是々非々主義を貫いて来たのが産経新聞である。当時としては、自民党というより、民社党の主張に一番近かったように思う。父親が自衛官だったと言えばそれまでだが、私は産経新聞をずっと読んできてよかったと思う。

 みなさんも、一度ちゃんと読んで頂けば分かると思うが、読んで胸のすく新聞である。食わず嫌いしないで是非とも読んでみて欲しい。朝日新聞とは言っていることが正反対だが、我々は筋は通しているつもりである。お申込は私までメールを頂くか、トップページの下の方に産経Webの購読案内ページへのリンクを張ってあるのでそちらからもよろしく。

 日本の大多数のマスコミが戦後民主主義を信奉し、進歩派を指向する中で、唯一その流れに棹差そうとしているのが産経新聞である。日本を戦後民主主義という名の翼賛体制にしないためにも、産経新聞は日本に必要な新聞と自負している。

新東京サンケイビル

新東京サンケイビル(手前は旧サンケイビル)

産経新聞との出会い  
 
 私と産経新聞との出会いは、今から遡ること37年前、生後6ヶ月の頃になる。当時我が家は毎日新聞をとっていた。昭和38年9月、隣組に産経新聞の西千葉と稲毛の両専売所から区域分割した作草部専売所(現在はみつわ台に移転)が出来た。所長自ら勧誘に来て、「最初の1ヶ月は無料でいいですからとって頂けませんか」と言ってきたため、父は「そういうのは嫌いだから、今月からちゃんと払って取る」と言ったそうだ。いざ取ってみたら、内容がいいので、以来37年間我が家は産経新聞である。

 私と産経新聞の付き合いはそれこそ、幼稚園のお弁当の包み紙であり、書道の時の下敷きであり、幼い頃から、新聞は読めなくてもずっと続いてきた。新聞を読む習慣がついたのは小学校3年頃からだろうか。父親が必ず夜7時のNHKニュースを見るため、私はその時間帯のアニメを見ることが出来なかった。その代わり、毎日ニュースを見るため、政治経済には小さい頃から興味を持っている。結果として、テレビで見たニュースを追う形で、新聞を読む習慣がついたのだろう。中学時代の夏休みの自由研究は、尖閣諸島問題や選挙制度問題など、ほとんど産経新聞から題材を拾ってレポートを書いていた。

 当時一番読んでいたのは国際面で、内容は覚えていないが、その頃の産経国際面は今と同じかより以上に面白かったと記憶している。中学から高校に入る頃、産経は定価据え置き政策をとった。第2次オイルショックの頃で、ボーナスが1/3になって分割払いになるなど、企業としての産経は非常に苦しかった時代らしい。当時、大幅なリストラが行われ、紙面が総合編集という名の下に1面から、政治経済国際と一緒くたの面割り、減ページになった。そして、定価据え置きの翌日から紙面がつまらなくなった。新聞を見る気がなくなり、以後数年間はほとんど新聞を読まなかった。

 次に読むようになったのは大学に入ってからだと思う。きっかけは当時産経が大々的に行っていた「行革キャンペーン」である。官僚主義、お役所主義を打破し、全体として小さな政府を目指すというのは、産経の論調の流れに沿い、私の考えにも非常に合うため、行革関連の記事は毎日、目を皿のようにして読みまくっていた。就職を前にしたちょうどこの時期に産経がこのキャンペーンをやっていなかったら、私は今産経新聞社で仕事をしていないだろう。大学4年の夏、新卒社員募集の社告を見た私は、大好きな産経新聞だから、やっぱり記念に受験しようと考えた。

産経新聞と私

産経新聞を読む私

産経新聞社入社から今日まで  
 入社試験の応募には作文が必要で、確かタイトルは「新聞と私」だったと思うが、先に書いたような産経に関する、自分史のようなものを書いて送ったと記憶している。こうして受験することになり、英語なんか全然出来なかったのに、筆記試験を通り面接に進んだ。第1志望編集、第2志望販売だった私に、1次面接では販売についての質問が集中した。何故か最終面接まで進み、当時の鹿内ジュニア議長以下役員のお歴々の面接となった。鹿内議長は編集配属予定者にはほとんど1人で質問していたらしいが、私の場合は2つだけ。1つは「尊敬する人吉田拓郎ってどういうことだ」、もう一つは「プロデュース研究会って何やってるんだ」、これだけ。まあ、そんなこんなで、産経新聞に入ることになった。これが昭和62年春のことである。

 さて、社に入って販売局に配属されたはいいが、新聞社の販売って一体何をどうやっているところなのかさっぱり分からない。編集や広告ならそのものズバリだが販売の場合はさあ何でしょう。世の中に新聞販売店があることは知っている。新聞拡張員がいることも知っている。じゃあ、新聞社の販売局って何やるんだ?そうか、本社とそういう人達とのパイプ役か。などなどと研修しながら分かって来た。そして、都内葛飾区の水元という店に配属され、2ヶ月間配達集金拡張をやることになった。実は実家から離れて住むのはこれが初めてで、結構うれしかったりしたものだ。2ヶ月、つまり2ルーティン販売店の仕事をすることで、新聞販売店の仕事の大方は分かった。同じ店に研修に来ていた都内のある店の所長のおかげで、その後自分がなることになる担当員という仕事についても教えてもらい、今でも付き合いが続いている。

 研修から復社後、約4ヶ月の内勤を経て、千葉西北部というところの助務から担当員生活がスタートした。翌63年5月産経の社運を賭けたカラー化635作戦が始まり、その新しい題字のハッピを着て電車に乗って歩くなど、入社2年目にして早くも産経きちがいぶりを発揮していた。担当員の仕事は社と販売店の間の調整役のようなものだが、商品を届けて原価を回収するまでの新聞を増やすための様々な仕事が全て関わって来る。所長交代、店舗、労務、税務、自然災害への対処から夫婦仲の仲裁まで何でもやらなければいけない。下の写真のように銀行員みたいなカバンを持って店から店へと飛び回っている。でかいカバンだが、普段はゴミ(但し業界人にとっては重要書類)しか入ってない。そんなこんなで担当員になって満12年(途中失脚して1年間内勤に入った)、販売基盤の弱い東京産経でなんとか頑張ってやって来た。最近は初めての地方担当で、入社志望以来の、紙面で新聞を売るという仕事の取っ掛かりも掴めて来た。これからも命がけで産経新聞の増紙に取り組んでいこうと思う。

担当員カバン

私の初代担当員カバン

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