私と産経新聞との出会いは、今から遡ること37年前、生後6ヶ月の頃になる。当時我が家は毎日新聞をとっていた。昭和38年9月、隣組に産経新聞の西千葉と稲毛の両専売所から区域分割した作草部専売所(現在はみつわ台に移転)が出来た。所長自ら勧誘に来て、「最初の1ヶ月は無料でいいですからとって頂けませんか」と言ってきたため、父は「そういうのは嫌いだから、今月からちゃんと払って取る」と言ったそうだ。いざ取ってみたら、内容がいいので、以来37年間我が家は産経新聞である。 私と産経新聞の付き合いはそれこそ、幼稚園のお弁当の包み紙であり、書道の時の下敷きであり、幼い頃から、新聞は読めなくてもずっと続いてきた。新聞を読む習慣がついたのは小学校3年頃からだろうか。父親が必ず夜7時のNHKニュースを見るため、私はその時間帯のアニメを見ることが出来なかった。その代わり、毎日ニュースを見るため、政治経済には小さい頃から興味を持っている。結果として、テレビで見たニュースを追う形で、新聞を読む習慣がついたのだろう。中学時代の夏休みの自由研究は、尖閣諸島問題や選挙制度問題など、ほとんど産経新聞から題材を拾ってレポートを書いていた。
当時一番読んでいたのは国際面で、内容は覚えていないが、その頃の産経国際面は今と同じかより以上に面白かったと記憶している。中学から高校に入る頃、産経は定価据え置き政策をとった。第2次オイルショックの頃で、ボーナスが1/3になって分割払いになるなど、企業としての産経は非常に苦しかった時代らしい。当時、大幅なリストラが行われ、紙面が総合編集という名の下に1面から、政治経済国際と一緒くたの面割り、減ページになった。そして、定価据え置きの翌日から紙面がつまらなくなった。新聞を見る気がなくなり、以後数年間はほとんど新聞を読まなかった。
次に読むようになったのは大学に入ってからだと思う。きっかけは当時産経が大々的に行っていた「行革キャンペーン」である。官僚主義、お役所主義を打破し、全体として小さな政府を目指すというのは、産経の論調の流れに沿い、私の考えにも非常に合うため、行革関連の記事は毎日、目を皿のようにして読みまくっていた。就職を前にしたちょうどこの時期に産経がこのキャンペーンをやっていなかったら、私は今産経新聞社で仕事をしていないだろう。大学4年の夏、新卒社員募集の社告を見た私は、大好きな産経新聞だから、やっぱり記念に受験しようと考えた。