死刑以外に何がある(平成12年12月1日)

 昨日(11月30日)、信毎の夕刊をホテルで見ていたら、3人の死刑執行という見出しが目に入った。例によって国は何も言わないから(ということか)死刑反対団体からの談話が先である。今回執行された3人は6年前に死刑判決が確定している。裁判にはそれ以上の年月がかかっている。勝田清孝に至っては最後の殺人から18年経っている。死刑廃止論者は、人をを殺したからといってすぐ死刑にしていいものかというが、判決即執行ではない。国も執行をためらっているのだ。喜んでやっているわけではない。

 死刑廃止論の根底にあるのは、キリスト教の教義である。「創造者たる神の前では人間は皆平等」という論理だ。神が創造した人間を勝手に殺す権利は人間にはないということで、だからこそ、自殺もキリスト教徒にとっては罪悪なのである。

 死刑廃止論と死刑存続論の間には宗教観、死生観、国家観の点で埋めようのない溝が存在する。まさしくイデオロギーの違いである。私は死刑存続論の立場から当然話をしているが、向こう側の視点に身を置いてみれば、彼らの言い分は正しいと思う。この点からいけば、廃止論と存続論は永遠に平行線をたどるだろう。しかし、幸いにして私はキリスト教徒ではなく、しかも日本人である。仮に天賦人権説に従ったところで、凶悪な殺人犯にも人権があるとは思えない。彼らは人を自らの意志で殺すという一線を踏み越えたところである意味、人間としての資格を失ったと言える。過失致死罪と殺人罪は違うし、殺人教唆が殺人と同罪であるというのもそこから来ている。廃止論者は犯人を殺してやりたいという被害者の遺族の心情は理解出来ると口々に言うが、その感情を発露させていけば、果てしない仇討ち合戦になってしまう。そのために、国家という公が死刑あるいは禁固懲役といった罰を課すのだ。廃止論者の一部には国家を認めたがらない連中も居るが、そもそも国家は国民の安全(生命と財産)を守るために存在するのであって、その必要上死刑も存在しているのである。

 日本では現在死刑相当の罪は少なくとも2人以上殺していることが条件であるかのようになっている。お隣中国ではたかが贈収賄でも死刑になる可能性がある。なぜたかがと言うかについては後日書こうと思うが、個人に対して課すことの出来る最高の刑が死刑であり、それに相当するのがどの程度の罪かという認識の違いだけの話である。つまり、生かしておくには忍びないほどの罪を犯したということなのだ。

 冤罪の可能性を云々するのもまた、廃止論者の特徴だが、冤罪の可能性がゼロの人間にしか現在死刑は執行されていない。執行されない死刑判決は事実上終身刑に格下げされたも同然である。実際に死刑が執行されてこそ、死刑判決も死刑相当かどうか慎重に審理されるのだ。そして、死刑相当だからこそ死刑は厳正に執行されなければならない。なぜなら、彼らはそれだけの罪を犯したのだから。

今日のコラムのトップへ

旅人のほーむぺーじ トップへ