私の海外旅行歴(初出に若干加筆)

海外と言えば(その1:ロシア)  
だいたい、旅人というハンドルでありながら、私は海外に行ったことがほとんどない。(そりゃ旅人って言っても旅行好きの旅人じゃなくて、ミスチルの歌のタイトルだから仕方ないが)会社に入る前は1度も行った事がなかったし、仕事以外でも行った事がない。従って、海外の記念写真もほとんどない。初めて行ったのは韓国で、その時初めてパスポートをとった。

 2回目は横浜の担当の時にいきなりロシア。入れるようになった直後のウラジオストックで、案の定何にもなくて結構面白かった。ロシア人の女の人って何でみんな太ってるんだろう。スッチーも街のアイスクリーム売りのおばさんもみんな太っている。しかし、若い子はみんなスレンダーで可愛いい。写真の子たちなんか実物はもっと可愛くて、彼女たちの母親は例によってとてつもなく太っていた。どうやら、結婚すると安心して太ってしまうらしい。

 アイスクリーム売りと言えば、そのアイスはその昔、日本の駄菓子屋でよく売っていたソフトクリーム型の小さいやつだった。たまたま、日曜日で両替が出来ず、みんな日本円しか持っていなかった。円でもいいと言い、日本円で23円くらいだと言う。1000円札しかなくて、お釣りがないと言われ、仕方ないから1000円分くれと言ったら、店ごと買い占めるはめになり、大量のアイスをそこら中配るはめになってしまった。

 泊まったホテルは、ハバロフスクが、ホテル・インツーリスト、ウラジオがホテル・ウラジオストックでどちらも超一流。しかし、シャワーのお湯は出ないし、あんなでかいロシア人が泊まるはずなのにベッドが小さい。ウラジオなんて、昔は高級軍人しか泊まれないホテルだったはずなのに、夜になると、マフィアがお姉ちゃん連れて来る。部屋まで押し掛けて来て、買わないかというし、その連中の体臭の臭いこと。まあ、それはいいとして、旅行社に言われた通りに特大サイズのパンストやボールペンを山ほど持っていったのが役立つ役立つ。なんか、不思議の国に行ったみたいだった。

 ウラジオからハバロフスクまでシベリア鉄道の夜行で帰ったのだが、そこの食堂車で片言の英語で話をしたアレクサンドルってやつは面白い奴だった。日本に帰って手紙を一往復しただけだが、真剣に、こいつと組んで商売しようかと思ったものだ。

 今ははるかに治安が悪くなってしまったらしいが、もしチャンスがあればもう一度行ってみたいものだ。

ロシア人姉妹

ウラジオの土産物屋の奥でコーヒーショップをやっていた姉妹

ラスベガス  
3回目は茨城の時に行った、ラスベガス。写真はグランドキャニオンに行った時の飛行機の前で撮ったものだが、あんまり話題にならないが毎年何機か落ちているらしい。確かに怖かった。JTBの添乗員(実は大学の後輩)が誰よりも怖がっていたのがいかに怖いかを物語っている。3泊5日の強行軍でラスベガスは1泊だけだった。このため、ひたすら博打を打っていたわけだが、マンガ「俺の空」でルーレットのやり方を昔読んだことがあったので、ずーっと、ルーレットをやっていて、えらいチップを弾んでしまったが、2万円勝ったからよしとした。朝5時出発なんてとんでもない時間だったので、結局一晩中やってて、せっかくシーザースパレスなんていいホテルに泊まったのに、部屋には荷物を置いただけだった。

グランドキャニオン

グランドキャニオン行きの飛行機の前で(後列左から2番目が私)

香港への1人旅  
最後に行ったのが3年前、香港。USA TODAYの研修と称して、交通費宿泊費を全部向こうに持ってもらって日本の連休を利用して忙しい最中に行ったもの。英語のほとんど出来ない私が、生まれて初めて、一人で飛行機で外国に行って、なおかつ向こうの担当者と3日間仕事の話をするという、今となればよくあんなことしたもんだというもんだった。

 ちょうど、返還直後だったが、まあ、特にどうということはなかった。産経の支局長に会いに行ったら、別に、返還には関係なく、最初から盗聴はされてるし、変な男につけ回されることなんかしょっちゅうだとのこと。そんなこと気にしてたら、仕事にならないそうだが、身の危険は感じるそうだ。長野支局長にロシア時代の話も聞こうっと。

 2日目3日目と香港のスタッフ(アメリカから来てる部長以外は全部現地採用、しかもほとんど女性)連中と飯を食いに行ったが、鳩の肉を食べさせられて、気持ち悪かったのを覚えている。歌も唄いに行ったが、香港のカラオケボックスもよく出来ていて、ちゃんと日本語の歌もある。写真のMr. Mark. C. Koch(当時のUSATのアジア太平洋地区販売責任者)とはその後、長野でも東京でもカラオケボックスに行って、Beatlesを歌いまくったっけ。長野オリンピックの一連の仕事を彼と一緒にやって、自分としてはなかなかいい仕事をしたつもりだった。オリンピック前夜祭で会ったUSATの首脳陣も満足していたようだったっけ。

 オリンピック後、マークは上司とアジア各地の販売業者との板挟みに嫌気がさして、アメリカに帰って別の新聞社に転職してしまった。米軍の星条旗新聞で4年間日本暮らしをした彼は、日本そして、アジアのビジネスに理解があり、ワシントンの首脳部が要求するアメリカンスタンダード(連中はそれをグローバルスタンダードと呼ぶ)に随分抵抗してくれた。大体、何でおかしくなったかと言えば、当時の円、そしてアジア通貨の大幅下落が原因だったのだから、何おかいわんやである。元々、円高の進行中に進んだ契約で、現地通貨建て払いにしたのは向こうだったからである。

 今度アメリカに行くことがあれば、マークのところへ遊びに行きたいものだ。

マークと私

香港のカラオケボックスにて友人のマークと

USAT首脳

長野オリンピック前夜祭でUSA TODAY首脳陣と

左からトム・ケリー副社長、旅人、トム・カーリー社長、岩本信毎販売局長

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